二杯のカクテルと帰る場所
二杯のカクテルと帰る場所
退屈だ。どこかに行こう。
時刻は20時前。普段なら夕食を済ませて部屋でくつろいでいる時間だ。
くつろぐと言えば聞こえはいいが、無趣味で交友関係も希薄な自分にとってはいたずらに時間を浪費するだけの無為な時間だ。
仕事をするわけでもなければ情熱を傾ける何かがあるわけでもない。
会いたい人も、会える人もいない。
そんな自分がどうして今まで外に出ようとしてこなかったのか、自分でも甚だ疑問だった。
退屈なりに家の中で必死に退屈しのぎを探していたのか、それとも単に出不精なだけか。外出すれば必然的に金がかかってしまうからか。
いずれにしても、一人暮らしで無趣味な自分にとって多少の浪費は大きな経済的損失には至らないはずだ。時間も体力も有り余っている。
どこか、落ち着いたバーにでも行ってみようと思った。
就職を機にこの街に引っ越してきて1年以上経つが、仕事に忙殺されてなかなか街を探索することはできていなかった。
都会の夜のネオンを眺めながら歩いていると、不思議と自分が高尚な存在になったような錯覚に陥る。自分が生まれ育った田舎では絶対に見ることのできなかった光景だ。実際は女性経験が多いわけでもなければ酒をそこまで好むわけでもない、まだまだ世間のことをよく知らない半人前の社会人でしかないのだが。
ふと、あの日の母の涙を思い出す。
「—―。元気でね。」
この街に引っ越してきたとき。引越しの手伝いでわざわざ高速を飛ばしてきてくれた両親。荷物の整理も終わり帰る間際、おもむろに自分を抱きしめながら、母はそう言った。
あの日、自分は子供ではなくなった。子供ではいられなくなった。大人になることを選んだのだ。
純粋に、寂しかった。
自分で選んだ道であることには違いない。
望んだ仕事。望んだ街。望んだ未来。
でも、そのために失ったものもある。
20年近く慣れ親しんだ故郷の町並み。面白いものは少なくても、綺麗な海の見えるあの町が嫌いではなかった。
地元の愉快な友人たち。学校帰りにはよくファミレスで駄弁り、休日には少し古びたカラオケで朝から晩まで騒ぎ、人並みに恋をしたりもした。
そして、生まれた時から傍にいてくれた家族。早く家族から”卒業したい”と願っていたが、どうしてなかなか、離れてみると父の大きな背中と母の料理が恋しくなる時がある。
すべて、自分の帰る場所だった。
長い時間をかけて手に入れた、いつでも自分を暖かく迎えてくれる居場所。
今の自分に、そんな居場所はあるのだろうか。
目の前に広がる天を衝かんばかりに聳え立つ摩天楼は、暖かかったあの頃の居場所と比べると、どこかひどく無機質で威圧的に見えた。
かつて肩を並べて帰り道を歩いた懐かしい顔は、今はもう自分の隣にはない。
自分はここで一人だった。
その事実を受け止めることが、たまらなく辛かった。
半ば自暴自棄になりながら夜の街を歩いていると、いつの間にか人気の少ない道に入り込んでいたようだった。
文明の利器スマートフォンを見れば今の位置はすぐに分かるのだろうが、無機質な電子音には敢えて道を尋ねず、自分の気の赴くままに歩いてみたくなった。
しばらくあてもなく歩くと、夜の闇に紛れるかのように淡く光る看板が目に入った。
どうやらカクテルバーのようだ。人気はほとんどない。うっすらとガラス越しに見える店内にはバーテンダーと数人の客の姿しか確認できなかった。もうここでいいか。
ゆっくりと扉を開けると、一人でグラスを磨くバーテンダーの女性が愛想よく微笑む。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
「はい」
「こちらのカウンター席にどうぞ」
少し低めの背もたれが付いた丸椅子に腰かけると、ここまで歩いてきた疲れがドッと足に襲い掛かってきた。あれ以上歩いていたら明日の朝はいろいろと危なかったかもしれない。
バーテンダーの女性に渡されたメニュー表に目を通す。幸い相場はそう高くないようだ。
「キール・ロワイヤルを」
「かしこまりました」
バーテンダーの女性が慣れた手つきで酒を用意する様をぼんやりと眺めていると、おもむろに彼女が話しかけてきた。
「お客様このお店は初めてですか?」
絵に描いたような決まり文句だった。
「えぇ、なんとなくどこかで飲みたい気分になってフラフラ歩いていたらここに流れ着きました」
美容師がよくやる、客との無言の気まずい空気を誤魔化すためのとりとめのない会話だということは分かっているが、今は誰とでもいいから話がしたかった。
「そうでしたか、ありがとうございます。このお店、そういうお客様が結構多いんですよ」
「そういうお客?」
「行くあてのない、帰るところが無くなったっていう方が多くて」
帰るところがないというのはきっと終電を逃して帰れなくなったとかそういうことだろう。
そうだろうというのは分かっているのに、不思議とその一言は自分の心を震わせた。
「今、店内にいらっしゃるお客さん達もそうなんですか?」
「そうですね、比較的常連さんが多いですけど…あ、そちらに座ってらっしゃるお客様も今日初めての方ですよ」
バーテンダーの女性はニッコリと笑って、自分の席から空席を挟んでさらに隣のカウンター席で空になったグラスをぼんやりと眺める女性を指した。
突然視線を向けられた女性は一瞬驚いた表情を浮かべながらも、どこか寂しさを湛えた笑顔をこちらに向ける。
その寂しさを、自分は知っているような気がした。
女性に何か声をかけようとした時、自分と彼女の間に二つのグラスが置かれた。
「お待たせしました。ご注文の品になります」
二つのグラスに注がれているのは、自分が注文したものと同じキール・ロワイヤル。
自分も目の前の女性も少しだけ困惑の色を浮かべるが、やがてふっと息が漏れ、自然と笑みが零れた。
どうやら今夜は一人で過ごす羽目にはならないな。
ただの予感でしかないが、言いようのない充足感が自分の心を包んでいることが分かった。
時刻は20時前。普段なら夕食を済ませて部屋でくつろいでいる時間だ。
くつろぐと言えば聞こえはいいが、無趣味で交友関係も希薄な自分にとってはいたずらに時間を浪費するだけの無為な時間だ。
仕事をするわけでもなければ情熱を傾ける何かがあるわけでもない。
会いたい人も、会える人もいない。
そんな自分がどうして今まで外に出ようとしてこなかったのか、自分でも甚だ疑問だった。
退屈なりに家の中で必死に退屈しのぎを探していたのか、それとも単に出不精なだけか。外出すれば必然的に金がかかってしまうからか。
いずれにしても、一人暮らしで無趣味な自分にとって多少の浪費は大きな経済的損失には至らないはずだ。時間も体力も有り余っている。
どこか、落ち着いたバーにでも行ってみようと思った。
就職を機にこの街に引っ越してきて1年以上経つが、仕事に忙殺されてなかなか街を探索することはできていなかった。
都会の夜のネオンを眺めながら歩いていると、不思議と自分が高尚な存在になったような錯覚に陥る。自分が生まれ育った田舎では絶対に見ることのできなかった光景だ。実際は女性経験が多いわけでもなければ酒をそこまで好むわけでもない、まだまだ世間のことをよく知らない半人前の社会人でしかないのだが。
ふと、あの日の母の涙を思い出す。
「—―。元気でね。」
この街に引っ越してきたとき。引越しの手伝いでわざわざ高速を飛ばしてきてくれた両親。荷物の整理も終わり帰る間際、おもむろに自分を抱きしめながら、母はそう言った。
あの日、自分は子供ではなくなった。子供ではいられなくなった。大人になることを選んだのだ。
純粋に、寂しかった。
自分で選んだ道であることには違いない。
望んだ仕事。望んだ街。望んだ未来。
でも、そのために失ったものもある。
20年近く慣れ親しんだ故郷の町並み。面白いものは少なくても、綺麗な海の見えるあの町が嫌いではなかった。
地元の愉快な友人たち。学校帰りにはよくファミレスで駄弁り、休日には少し古びたカラオケで朝から晩まで騒ぎ、人並みに恋をしたりもした。
そして、生まれた時から傍にいてくれた家族。早く家族から”卒業したい”と願っていたが、どうしてなかなか、離れてみると父の大きな背中と母の料理が恋しくなる時がある。
すべて、自分の帰る場所だった。
長い時間をかけて手に入れた、いつでも自分を暖かく迎えてくれる居場所。
今の自分に、そんな居場所はあるのだろうか。
目の前に広がる天を衝かんばかりに聳え立つ摩天楼は、暖かかったあの頃の居場所と比べると、どこかひどく無機質で威圧的に見えた。
かつて肩を並べて帰り道を歩いた懐かしい顔は、今はもう自分の隣にはない。
自分はここで一人だった。
その事実を受け止めることが、たまらなく辛かった。
半ば自暴自棄になりながら夜の街を歩いていると、いつの間にか人気の少ない道に入り込んでいたようだった。
文明の利器スマートフォンを見れば今の位置はすぐに分かるのだろうが、無機質な電子音には敢えて道を尋ねず、自分の気の赴くままに歩いてみたくなった。
しばらくあてもなく歩くと、夜の闇に紛れるかのように淡く光る看板が目に入った。
どうやらカクテルバーのようだ。人気はほとんどない。うっすらとガラス越しに見える店内にはバーテンダーと数人の客の姿しか確認できなかった。もうここでいいか。
ゆっくりと扉を開けると、一人でグラスを磨くバーテンダーの女性が愛想よく微笑む。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
「はい」
「こちらのカウンター席にどうぞ」
少し低めの背もたれが付いた丸椅子に腰かけると、ここまで歩いてきた疲れがドッと足に襲い掛かってきた。あれ以上歩いていたら明日の朝はいろいろと危なかったかもしれない。
バーテンダーの女性に渡されたメニュー表に目を通す。幸い相場はそう高くないようだ。
「キール・ロワイヤルを」
「かしこまりました」
バーテンダーの女性が慣れた手つきで酒を用意する様をぼんやりと眺めていると、おもむろに彼女が話しかけてきた。
「お客様このお店は初めてですか?」
絵に描いたような決まり文句だった。
「えぇ、なんとなくどこかで飲みたい気分になってフラフラ歩いていたらここに流れ着きました」
美容師がよくやる、客との無言の気まずい空気を誤魔化すためのとりとめのない会話だということは分かっているが、今は誰とでもいいから話がしたかった。
「そうでしたか、ありがとうございます。このお店、そういうお客様が結構多いんですよ」
「そういうお客?」
「行くあてのない、帰るところが無くなったっていう方が多くて」
帰るところがないというのはきっと終電を逃して帰れなくなったとかそういうことだろう。
そうだろうというのは分かっているのに、不思議とその一言は自分の心を震わせた。
「今、店内にいらっしゃるお客さん達もそうなんですか?」
「そうですね、比較的常連さんが多いですけど…あ、そちらに座ってらっしゃるお客様も今日初めての方ですよ」
バーテンダーの女性はニッコリと笑って、自分の席から空席を挟んでさらに隣のカウンター席で空になったグラスをぼんやりと眺める女性を指した。
突然視線を向けられた女性は一瞬驚いた表情を浮かべながらも、どこか寂しさを湛えた笑顔をこちらに向ける。
その寂しさを、自分は知っているような気がした。
女性に何か声をかけようとした時、自分と彼女の間に二つのグラスが置かれた。
「お待たせしました。ご注文の品になります」
二つのグラスに注がれているのは、自分が注文したものと同じキール・ロワイヤル。
自分も目の前の女性も少しだけ困惑の色を浮かべるが、やがてふっと息が漏れ、自然と笑みが零れた。
どうやら今夜は一人で過ごす羽目にはならないな。
ただの予感でしかないが、言いようのない充足感が自分の心を包んでいることが分かった。
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