お久しぶりです。俺と偽装婚約してもらいます。~年下ワケあり生真面目弁護士と湯けむり婚前旅行~

天海うかぶ

28. 頑張った葉月さんを、いっぱい甘やかさせてください(1)

 人生の転機となった温泉旅行の一ヶ月後、葉月は東京の一流ホテルにあるフレンチレストランの個室にいた。

 天井にはシャンデリア、壁には花の西洋画とレースカーテンの大きな窓。
 家具はすべて白で揃えられたルネサンス風。
 分厚いテーブルクロスがかかったテーブルには、長い名前のソースをかけられたポークソテーが三皿置かれている。

 なぜこんな華美な場所にいるのかと言うと、それが葉月の母の好みだからだ。
 葉月と朔也は婚約の報告を兼ねて、葉月の母との顔合わせをしていた。

「やだぁ、朔也さんったら」

 よそゆきのワンピースを着た母が、うふふ、と聞いたことのない声で笑っている。

 ──お母さん、ずっとぶつくさ言ってたのが嘘みたい……。

 現金な母親に、葉月は内心ひそかに溜め息をついた。

 電話で婚約したことを伝えたとき、母は相手があの「雨宮」だと知って難色を示した。
 だが、ランチコースがメインにたどり着いた今はすっかり骨抜き状態だ。
 雨宮家がもう裏社会に関わっていないと理解したからもあるが、何よりも朔也の魅力にやられたらしい。
 待ち合わせ場所にスーツ姿で現れた美しい朔也を見た途端に顔色を変え、その後は彼の話術に警戒を解かれていた。

「こんなにかっこよくて優しくて、しかも弁護士さんなんて完璧だわぁ。私が結婚したいくらいよ」
「光栄です。ありがとうございます」

 葉月の隣で朔也が営業モードの爽やかな笑みを浮かべる。
 彼の素顔を知っている葉月にしてみれば胡散臭い表情なのだが、母ははしゃいでいた。
 昔から母のテンションが上がるとろくなことがないので、嫌な予感がする。

「まさか葉月が妹よりいい男捕まえるなんてねぇ! 冗談みたいだわ。朔也さん、この子で本当にいいの?」
「……はは、僕は葉月さん『が』いいんですよ」
「朔也さんならいくらでも選べたでしょ! こんなのじゃなくて!」

 ──や、やばい、いつもの始まっちゃった……!

「お母さん、朔也くん困ってるから……」
「そんなことないわよねぇ。ごめんね朔也さん、この子って昔からこうなのよ。鈍臭いしおどおどしてるし、私が産んだとは思えないでしょ。子どものときから疑ってたわー」

 それが面白い冗談かのように、母が葉月を指差す。

 ──駄目だ、こんなの朔也くんに聞かせられない。止めなきゃ!
 ──でも、口を挟んだらもっとひどいこと言われる。小さい頃からずっとそうだった……。

 植え付けられた恐怖心からつい躊躇していると、母はより大袈裟に笑った。

「大人になったらなったでバイトみたいな仕事しかできなくてね、ほんと一家の恥だったのよぉ。それがイケメン弁護士さんと結婚なんて……ねえねえ朔也さん、本当に結婚するのこの子で合ってる?」
「……ええ。もちろん」

 朔也は微笑みを崩さない。
 だが、挟まれる沈黙や少し低くなった声から、彼が怒りを抑えているのが伝わってきた。
 葉月の母に言い返さないのは、朔也と母を引き合わせた葉月の立場を気遣っているのだろう。

 ──朔也くん、我慢してくれてる。こんな私のために……。
 ──……ううん。「こんな」私じゃない。
 ──もうそう思うのはやめた。もう逃げない、って朔也くんと約束したんだ。

 葉月は膝の上で拳を握り、正面から母を見据えた。

「お母さん、その話はやめて。朔也くんにも失礼だよ」
「あはは、なに葉月、あんたこんな冗談に怒ってんの? 駄目よ、調子に乗っちゃ。朔也さんに引き取ってもらえて感謝しないと。あんたがダメ人間なのは事実なんだから──」
「違う。私は駄目な奴なんかじゃない」

 厳しい表情で否定した葉月に、母が目を丸くする。
 葉月が怯えずに抗議したのは生まれて初めてだったからだ。

「少し前までは駄目だと思ってたよ。でも、今は違う。私を愛してくれてる人がいるって気づいたから。朔也くんだけじゃなく、新しい家族も、友達も……図書館のスタッフや利用者さんたちだってそう。私ね、今度の大型イベントのサブリーダーになったんだ。ちゃんと職場で認められてるよ。周りの人たちのためにも、もう自分をおとしめたくない」

 これまでは言いたくても言えなかったことが、すらすらと口から出ていく。
 反抗してこないはずの葉月の変貌ぶりに、母はまだ面食らっているようだった。

「私はお母さんのサンドバッグじゃないんだよ。謝って」
「な、何よ、いきなり……」
「謝ってって言ってるの。私にも、朔也くんにも」

 一歩も引かない葉月の気迫に押され、母が視線をそらす。
 そのまま母は助けを求めるように朔也を見たが、彼ももう笑ってはいなかった。
 愛する人を侮辱された怒りが、冷たい眼差しに滲んでいる。

「──っ、わかったわよ……ごめん、なさい。これでいいのね」

 母は憎まれ口を叩いてみせたが、表情から以前のような不遜さは消えていた。

「うん。ありがとう、お母さん」

 葉月がしっかりと母を見つめたまま頷く。
 朔也は健闘を称えるように、テーブルの下で葉月の手を握った。

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