お久しぶりです。俺と偽装婚約してもらいます。~年下ワケあり生真面目弁護士と湯けむり婚前旅行~

天海うかぶ

25. いっぱい見て、触ってほしいから

 朔也としっかり手を繋いだまま、雨の露をまとって輝く竹林の小径を抜ける。
 空から黒い雲は消え、青に薄く張った白いもやのようなそれがやや傾いた日差しに照らされていた。
 生暖かい風が吹き、桜の花や湿った木々の香りを含んだ春の匂いがする。

「……くしゅっ」

 離れの玄関にたどり着くなり、朔也は妙に可愛らしいくしゃみをした。
 本人が気にしていなかったしそれどころではなかったから葉月も忘れていたが、全身濡れているのだ。冷えて当然だろう。

「朔也くん、早くお風呂に入ってあったまったほうがいいよ。風邪ひいちゃう」
「葉月さんの次に入ります。あなたも雨の中にいたんですから」
「私は大丈夫だよ、東屋にいたから」
「俺も新しい服に着替えれば問題ありません」
「でも」
「大丈夫です」

 涼しい顔で書斎に向かおうとする朔也のジャケットの裾を、葉月は思い切って掴んだ。

「じゃ、じゃあ……一緒にお風呂入ろう。それならいいよね?」

 葉月の言葉に、朔也が目を見開いて固まる。

「……駄目です」
「ほら、一昨日はそうしたし」
「あれは事故でしたから。駄目ですよ、あなたに昨日のことを思い出させたくない」
「大丈夫だよ。確かにあのときは朔也くんと気持ちがすれ違っててつらかったけど……今はもう仲直りしたから」
「けど」
「大丈夫」

 葉月は戸惑う朔也へ一歩近づき、今度は手を握ってみた。
 これまではこんなに強気になれなかったが、朔也と気持ちが通じ合っているという確信が背中を押してくれる。

「……わかりました。葉月さんがよければ」
「あ、ありがとう!」
「いえ、礼を言うのは俺のほうです」

 朔也が気まずそうにしつつも、葉月に手を引かれて洗面所に入ってくる。
 見上げた顔は表情を消そうと努めているがやや強張っており、それを隠すように手が眼鏡を押し上げた。
 照れたときの彼の癖だ。

 ──……あっ。

 事の重大さにようやく気づき、葉月は頬が熱くなった。
 朔也が風邪をひかないように、昨晩の出来事を気に病みすぎないように、という気持ちが先立って忘れていたが、今から葉月は朔也の前で裸になるのだ。
 一昨日のように寝ぼけたり、昨日のように怒りで我を忘れたりしていない、素面の彼の前で。

「俺、見ません……から」
「うん、わ、わかった。私も見ないよ!」

 お互いに背を向け、ぎこちなく服を脱いでいく。

 ──き、緊張する……駄目だ、平常心、平常心。
 ──あれ……!?

 さっそくハプニングが起き、ひそかに慌てふためく。
 布を噛んでしまったのか、ワンピースの背中のファスナーが下りないのだ。

「あの……朔也くん、お願いがあるんだけど」
「何でしょうか」
「背中のファスナー、下ろしてもらえないかな……」

 見てもないのに、朔也の動きがぴたっと止まったのがわかった。

「──……はい」

 何かを堪えたような沈黙のあと、大きな手が背中に触れる。
 意識しています、と言わんばかりのこわごわとした手つきに、葉月もますます朔也を意識してしまった。
 ファスナーが丁寧に下ろされていくのにつれて、鼓動がどんどん高鳴っていく。

「……できました」
「あ、ありがとう」

 感情を抑え込もうとしているのか、朔也の声はやたらと平坦だった。

 ──どんな顔してるんだろう。気になるけど……。

「お先に失礼します」

 葉月が振り向こうか迷っている間に、朔也が浴室へ出ていく。
 ほっとしたような、さらに緊張してしまったような。
 もう誰もいないのに葉月はおずおずと裸になり、備え付けの白いフェイスタオルで体の前面を隠した。
 思いのほかそれが小さくていろいろ隠しきれておらず、頬だけでなく耳まで熱くなる。

 ──自分からお風呂に誘って、こんな格好で出てって。いやらしいって思われないかな。
 ──思われても、朔也くんが嫌じゃないなら、私……だ、駄目だ。下心が全開になってる。やめよう、変なこと考えるの。

 葉月は首を横に振り、勇気を出して浴室に入った。
 檜造りの室内には二人分の洗い場があるが、朔也は葉月を思いやってか露天風呂そばのシャワーブースを使っているようだ。
 洗い場で体を洗ってから、またフェイスタオルを前に垂らして露天風呂へ向かう。
 浴槽に浸かっている朔也の背中が見えた瞬間、緊張がピークに達した。

「……は、入る、ね」
「どうぞ」

 朔也はやはり葉月を見なかった。
 浴槽に近づいて、震える手でタオルを取り、かけ湯をする。
 朔也から一人分離れた場所に足を踏み入れたときに立った水音が、妙に大きく聞こえた。

「大丈夫です。見ないから」

 朔也は少し顔を赤らめ、言葉通り目をきつく閉じている。
 深い眉間の皺が彼の葛藤を表しているようだった。

 ──朔也くん、恥ずかしがってるだけじゃない……よね。
 ──やっぱりまだ昨日のこと……。

 気遣いが嬉しいがもどかしくもなり、葉月は思い切って朔也に近づいた。

「……よければ、見てほしいな」

 葉月の一言に朔也が目を見開く。
 その拍子に視界へ裸の葉月が入ったらしく、彼は慌ててそっぽを向いた。

「い、いきなりどうしたんですか。やっぱり駄目です。こんな……ケジメがついてない」
「駄目じゃないよ。大切にしてくれるのは嬉しいけど、許されちゃ駄目、って一人で決めるのはやめたんでしょ?」

 湯の中で朔也の手に手を重ねると、彼ははっとした顔で再び葉月を見た。

「私ともっと話すべきだった、って言ってくれたよね。だから……今、私の考えてること、聞いてみてくれない?」
「葉月さん……」
「私は昨日のこと、もう気にしてないよ。さっきも言ったけど、つらかった部分はもう終わったから。だから、見ちゃいけないなんて思わないで。私は朔也くんに見られたり……だけじゃなく、触られたり、だって」

 説得のためとは言え大胆すぎるかも、と途中で恥ずかしくなってうつむく。
 しばらく経っても反応がないので不安になって顔を上げたら、朔也は驚いた表情のまま固まっていた。

「ご、ごめん! はしたなかったよね。幻滅した?」
「……いえ。その逆です。ありがとう、葉月さん。それと……ごめんなさい。俺、意地張ってました」

 朔也が顔を緩めて苦笑し、重ねた葉月の手を握ってくれる。
 彼の心の扉がまた一つ開いたのを感じて、葉月は胸が温かくなった。

「すみません。見て、触らせてほしいと思って」
「謝らないで、すごく嬉しいよ。朔也くんの好きなところ、いっぱい見て触って! 好きなように、好きなだけ」

 喜びをそのまま言葉に乗せると、朔也がなぜか照れたように目を細める。

「葉月さん。それ、天然で言ってます?」
「……あっ」
「やっぱり。可愛い人ですね、あなたは」

 朔也の微笑みに悪い意味はないとわかっているが、葉月は恥ずかしくてもう一度うつむいた。
 自分の白い胸元が視界に入って、二人とも裸なのだと改めて意識してしまう。
 湯で一応隠れてはいるが、隣にいる朔也には胸の先端まで見えてしまっているはずだ。

 ──昨日も一昨日も、見せちゃったけど……。

 記憶が一気に蘇って、鼓動がさらに速まった。

「あ、あの……天然、で言ったけど。いいよ」
「え?」
「そういう意味でも、いっぱい見て、触ってほしい……から」

 顔は上げられないまま、勇気を振り絞って告げる。
 朔也の驚きが伝わってきて、やりすぎたかと不安と羞恥で頬が熱くなった。

「……いいんですか」

 朔也の少し吐息が混じった低い声に、ゾクッと体の芯が痺れる。

「うん……」

 葉月は自分の手を包み込んでいる朔也の長い指に、指を絡めた。
 朔也がもう一方の手で葉月の顎先に触れ、顔を上げさせる。

「──……」

 視線が合うのと同時に、葉月は頭が真っ白になった。
 何も言えずに見つめ合っているうちに、二人の間の空気が湯気のせいだけではない湿度と熱を帯びる。

「ん……」

 気づけば、唇が重なっていた。
 触れ合うだけの優しいキスを何度も繰り返す。
 朔也は絡ませたままの指を動かし、ゆっくりと葉月の指の間を愛撫した。
 水かきをなぞられ、くすぐったい快感が葉月の背筋をざわめかせる。

「葉月さん」
「な、なに……?」
「ありがとうございます。あなたを見て、触ってると……すごく、幸せな気分になる」
「……っ、私も、だよ」

 至近距離で微笑まれ、心臓が痛いくらいドキドキする。
 いつの間にか二人の距離は縮まり、隣り合った腿と腿が密着していた。

「あっ」

 唐突に親指の爪先で掌をかりっと引っかかれて、思わず葉月の口から声が漏れる。

「今の、すごく可愛い」

 耳元に顔を寄せてきた朔也に囁かれ、今度は肩が小さく跳ねた。

「今のも」

 朔也が葉月の耳に口づけてくる。
 ちゅ、ちゅ、とキスされる音や朔也の少し荒くなった呼吸をすぐそばで聞かされ、葉月の体が一気に熱くなった。

「……もっと、したい。部屋、戻りませんか」

 耳の中へほとんど吐息になった声を流し込まれて、葉月はこくりと頷いた。

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