お久しぶりです。俺と偽装婚約してもらいます。~年下ワケあり生真面目弁護士と湯けむり婚前旅行~
23. 今度こそ逃げない(2)
洗面所で髪を乾かして身支度を調え、最後に皺を伸ばしたジャケットを羽織る。
鏡の中の自分が少しはしっかりして見えたのにいくらか安心して廊下に出ると、離れには葉月の気配がなかった。
三和土に靴もなく、どうやら外出しているようだ。
──散歩かな。外、雨が降りそうだ。傘を持って迎えに……いや、この天気ならすぐに帰ってくるか?
──葉月さんに会ったら、ちゃんと話そう。もう偽装婚約を終わらせるって。
今朝からずっと不安げな顔をしていた葉月を思い出し、申し訳なくなる。
窓から鉛色の空を見ていたら気分までもやもやしてきて、朔也はごまかすように早足で書斎へ戻った。
戸を開けると、見覚えのないものが文机の中央に置かれている。
「……え?」
銀の指輪と、白いメモ帳。
まさか、と確認するが、指輪は偽装婚約のために朔也が贈ったもので、メモには葉月の乱れた細い字が躍っていた。
──ごめんなさい。
悲痛ささえ感じる筆跡に、頭が真っ白になる。
「出て、った……?」
我ながら情けない声が漏れたが、それを自嘲できる余裕はなかった。
──そう……か。そうだよな。当たり前だ、愛想尽かされたって……。
納得しつつも、あまりの衝撃に文机の前で動けなくなる。
朔也が何度ひどいことをしても、葉月はいつでも笑顔で支えてくれた。
だから、彼女が去ってしまうなんて頭の隅にもなかったのだ。
──……ああ。俺、めちゃくちゃ甘えてたんだ。葉月さんに。
──あの人が作り笑いしてるのわかってた。なのに俺は話も聞かないで、自分のことばっかで。
かすかに震える指で葉月の字をなぞる。
彼女がどんな思いでこれを書いたのか、朔也はようやく考えた。
──何が「正しいこと」だ。何が「困ってる人を助ける」だ。
──俺はそばにいた葉月さんも守れなかった。無理矢理巻き込んで、強引に抱いて、それでも許してくれた彼女を追い詰めた。あんな優しい人が耐えきれなくなるまで……!
かけがえのない人を失った絶望が、自分への怒りが、胸の中で暴れ出す。
朔也は衝動的に玄関へ向かったが、書斎から廊下に出たところで足が止まってしまった。
──葉月さんに謝りたい。
──でも、俺にそんな資格あるのか? 追いかけたって、余計に苦しめるだけなんじゃ……。
どうしていいのかわからなくなり、玄関から逆方向へ──最後に彼女を見た和室へ向かう。
座椅子には葉月が着ていた桜色のカーディガンがかかりっぱなしだった。
足から力が抜けて、そのそばにしゃがみ込む。
すると、カーディガンのポケットからこぼれたのか、座布団に小さな黒い巾着が落ちていた。
やや開いた袋の口から、銀色の何かが覗いている。
その正体に気づいた途端、ぶわっと全身の毛穴が開いた。
「──……!」
透明なプラスチックのダイヤが並んだ、おもちゃの指輪。
あの頃よりくたびれてしまってはいるが、間違いなく十四年前に朔也が贈ったものだ。
──嘘だろ、ずっと持っててくれてたのか……!?
夕焼けの空。春の丘。涙をこぼしながら笑った少女。
これを渡したときの情景がフラッシュバックし、熱い何かが激しく胸を突き上げる。
朔也はしばらく絶句して指輪を眺めていたが、突然それを握りしめて立ち上がった。
──このままじゃ駄目だ。
──もう諦めたくない。あのときみたいに後悔したくない。
これを葉月に贈ってから一年と少し経った頃、朔也は彼女を諦めた。
母の恋人に葉月とのメールに使っていた携帯電話を壊されたのがきっかけだ。
男や母が葉月の存在に気づいたらそちらにまで危害が及ぶかもしれない。
だから、彼女を守るためには関係を絶つしかなかった。
──……いや、違う。
──あれはただ単に逃げてただけだ。隠れて連絡する手段なんていくらでもあった。でも、俺は。
もし葉月に怖がられたら。
他の誰かと同じように拒絶されたら。
そう思うと怖くて、当時の朔也は何もできなかった。
大学に入って上京したときも、彼女が都内の別の大学にいることを突き止めたのに会いに行けなかった。今さらどうした、と言われるのが怖くて。
──今と同じだ。葉月さんに拒まれて傷つきたくないからって、苦しめたくないとか適当な言い訳を作って諦めてた。
──本当はずっと会いたくて仕方なかったのに。俺があの人を諦められるはずなかったのに。
だんだん歩く足が速くなる。
朔也は書斎からスマートフォンを取り、葉月へ電話をかけながら玄関から曇り空の下へ駆け出した。
外は今にも雨が降りそうだ。
だが、もう止まる気はない。
──今度こそ逃げない。葉月さんの本当の気持ちを聞こう。傷つくことでも受け止めて、ちゃんと謝ろう。彼女が聞いてくれるなら、俺の本心も全部話そう。
──このままじゃ何も終われないし始まらないんだ……!
電話は繋がらず、庭園に出ても葉月の姿はなかった。
時間から考えて、まだ遠くには行っていないはずだ。街へ下りるにはタクシーを呼ぶために母屋へ行く必要がある。
「わっ! 朔也? どうしたの?」
息を切らして母屋にたどり着いた朔也に、そこから出てきたすみれが目を丸くした。
中の売店にいたらしく、土産物の紙袋を四つも持っている。
「葉月さん見なかったか」
「え、見てない。しばらくここにいたけど来てないよ。なに、ケンカでもした?」
焦りを隠そうともしない朔也に、すみれは怪訝そうだ。
──ここじゃないならどこだ……!?
朔也は事情を説明するのも忘れ、辺りを見回した。
「探してんの? 番頭さんに聞いたんだけどこれから雨降るらしいよ。傘借りてったら?」
景色を見上げたのと同時に「番頭」という単語が聞こえ、脳裏に閃きが走る。
「……あそこだ」
「な、なに? どこ?」
「ありがとう、姉さん。助かった」
すみれに一度向き直って告げたあと、駆け出す。
残されたすみれは驚いた顔のまま「朔也がお礼言った……」と呟いた。
鏡の中の自分が少しはしっかりして見えたのにいくらか安心して廊下に出ると、離れには葉月の気配がなかった。
三和土に靴もなく、どうやら外出しているようだ。
──散歩かな。外、雨が降りそうだ。傘を持って迎えに……いや、この天気ならすぐに帰ってくるか?
──葉月さんに会ったら、ちゃんと話そう。もう偽装婚約を終わらせるって。
今朝からずっと不安げな顔をしていた葉月を思い出し、申し訳なくなる。
窓から鉛色の空を見ていたら気分までもやもやしてきて、朔也はごまかすように早足で書斎へ戻った。
戸を開けると、見覚えのないものが文机の中央に置かれている。
「……え?」
銀の指輪と、白いメモ帳。
まさか、と確認するが、指輪は偽装婚約のために朔也が贈ったもので、メモには葉月の乱れた細い字が躍っていた。
──ごめんなさい。
悲痛ささえ感じる筆跡に、頭が真っ白になる。
「出て、った……?」
我ながら情けない声が漏れたが、それを自嘲できる余裕はなかった。
──そう……か。そうだよな。当たり前だ、愛想尽かされたって……。
納得しつつも、あまりの衝撃に文机の前で動けなくなる。
朔也が何度ひどいことをしても、葉月はいつでも笑顔で支えてくれた。
だから、彼女が去ってしまうなんて頭の隅にもなかったのだ。
──……ああ。俺、めちゃくちゃ甘えてたんだ。葉月さんに。
──あの人が作り笑いしてるのわかってた。なのに俺は話も聞かないで、自分のことばっかで。
かすかに震える指で葉月の字をなぞる。
彼女がどんな思いでこれを書いたのか、朔也はようやく考えた。
──何が「正しいこと」だ。何が「困ってる人を助ける」だ。
──俺はそばにいた葉月さんも守れなかった。無理矢理巻き込んで、強引に抱いて、それでも許してくれた彼女を追い詰めた。あんな優しい人が耐えきれなくなるまで……!
かけがえのない人を失った絶望が、自分への怒りが、胸の中で暴れ出す。
朔也は衝動的に玄関へ向かったが、書斎から廊下に出たところで足が止まってしまった。
──葉月さんに謝りたい。
──でも、俺にそんな資格あるのか? 追いかけたって、余計に苦しめるだけなんじゃ……。
どうしていいのかわからなくなり、玄関から逆方向へ──最後に彼女を見た和室へ向かう。
座椅子には葉月が着ていた桜色のカーディガンがかかりっぱなしだった。
足から力が抜けて、そのそばにしゃがみ込む。
すると、カーディガンのポケットからこぼれたのか、座布団に小さな黒い巾着が落ちていた。
やや開いた袋の口から、銀色の何かが覗いている。
その正体に気づいた途端、ぶわっと全身の毛穴が開いた。
「──……!」
透明なプラスチックのダイヤが並んだ、おもちゃの指輪。
あの頃よりくたびれてしまってはいるが、間違いなく十四年前に朔也が贈ったものだ。
──嘘だろ、ずっと持っててくれてたのか……!?
夕焼けの空。春の丘。涙をこぼしながら笑った少女。
これを渡したときの情景がフラッシュバックし、熱い何かが激しく胸を突き上げる。
朔也はしばらく絶句して指輪を眺めていたが、突然それを握りしめて立ち上がった。
──このままじゃ駄目だ。
──もう諦めたくない。あのときみたいに後悔したくない。
これを葉月に贈ってから一年と少し経った頃、朔也は彼女を諦めた。
母の恋人に葉月とのメールに使っていた携帯電話を壊されたのがきっかけだ。
男や母が葉月の存在に気づいたらそちらにまで危害が及ぶかもしれない。
だから、彼女を守るためには関係を絶つしかなかった。
──……いや、違う。
──あれはただ単に逃げてただけだ。隠れて連絡する手段なんていくらでもあった。でも、俺は。
もし葉月に怖がられたら。
他の誰かと同じように拒絶されたら。
そう思うと怖くて、当時の朔也は何もできなかった。
大学に入って上京したときも、彼女が都内の別の大学にいることを突き止めたのに会いに行けなかった。今さらどうした、と言われるのが怖くて。
──今と同じだ。葉月さんに拒まれて傷つきたくないからって、苦しめたくないとか適当な言い訳を作って諦めてた。
──本当はずっと会いたくて仕方なかったのに。俺があの人を諦められるはずなかったのに。
だんだん歩く足が速くなる。
朔也は書斎からスマートフォンを取り、葉月へ電話をかけながら玄関から曇り空の下へ駆け出した。
外は今にも雨が降りそうだ。
だが、もう止まる気はない。
──今度こそ逃げない。葉月さんの本当の気持ちを聞こう。傷つくことでも受け止めて、ちゃんと謝ろう。彼女が聞いてくれるなら、俺の本心も全部話そう。
──このままじゃ何も終われないし始まらないんだ……!
電話は繋がらず、庭園に出ても葉月の姿はなかった。
時間から考えて、まだ遠くには行っていないはずだ。街へ下りるにはタクシーを呼ぶために母屋へ行く必要がある。
「わっ! 朔也? どうしたの?」
息を切らして母屋にたどり着いた朔也に、そこから出てきたすみれが目を丸くした。
中の売店にいたらしく、土産物の紙袋を四つも持っている。
「葉月さん見なかったか」
「え、見てない。しばらくここにいたけど来てないよ。なに、ケンカでもした?」
焦りを隠そうともしない朔也に、すみれは怪訝そうだ。
──ここじゃないならどこだ……!?
朔也は事情を説明するのも忘れ、辺りを見回した。
「探してんの? 番頭さんに聞いたんだけどこれから雨降るらしいよ。傘借りてったら?」
景色を見上げたのと同時に「番頭」という単語が聞こえ、脳裏に閃きが走る。
「……あそこだ」
「な、なに? どこ?」
「ありがとう、姉さん。助かった」
すみれに一度向き直って告げたあと、駆け出す。
残されたすみれは驚いた顔のまま「朔也がお礼言った……」と呟いた。
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