お久しぶりです。俺と偽装婚約してもらいます。~年下ワケあり生真面目弁護士と湯けむり婚前旅行~

天海うかぶ

6. 今日はこの人に婚約指輪を買いにきたので(3)

 応接室に入って指輪を注文したあと、朔也は仕事の電話で席を立ち、葉月は一人で部屋に取り残された。

「……つ、疲れた……」

 脇に置かれていたクッションを抱き、ソファに埋もれる。
 応接室には対になる白いソファがあり、間にガラスのローテーブルがあった。
 壁には店内と同じく広告写真が飾られ、観葉植物の横の大きな窓から銀座の夜景が見下ろせる。
 少し前の葉月なら自分の場違いさに怯えていただろうが、緊張の糸がようやく切れた今はそれどころではなかった。

 ──なんかすごいことになっちゃったな。二時間前はいつも通り働いてたのに。
 ──こんなお店で婚約指輪を買ってもらうなんて……ううん、朔也くんと会えたことからもう信じられない。

 瞼を閉じ、朔也と再会してからを思い浮かべる。

 車内で強引なキスをしたあとの、彼の傷ついた表情。
 駐車場ですがるように見つめてきた、寂しげな瞳。
 甘味処で葉月を励ましてくれたときの、熱のこもった声。

 ──脅されたのは確かだけど、朔也くんは悪い人じゃない気がする。
 ──もしかしたら何か深刻な事情があるんじゃないかな。どうしようもなくて偽装婚約を企んだんだとしたら、私……。

 そこまで考えてから姿勢を正し、眉をぎゅっと寄せる。

 ──いや、いい人だって思い込みたいだけかも。朔也くんはずっと、私の憧れのヒーローだったから。
 ──……そうだよ。優しくしてくれたのだって、私を手なずけるためなのかもしれない。

 つい溜め息が出たところで応接室のドアがノックされ、葉月はソファから跳ね起きた。

「はい! どうぞ」
「失礼いたします」

 金の装飾が施された木目調の白いドアが開き、白磁のティーセットの載った盆を持った追川が現れる。
 彼女はしっかり化粧をした顔に笑みを貼り付けていたが、目は笑っていなかった。

 ──……なんか、嫌な予感。

 緊張する葉月の前に、紅茶の入ったティーカップが置かれる。

「ごゆっくりなさってくださいね。雨宮先生はまだお電話にお時間がかかりそうで」
「あ、ありがとうございます」
「……それにしても、すごいですねぇ。先生が選んだリング、うちのブランドの最高級ラインなんですよ」
「えっ、そうなんですか」

 葉月はカップに伸ばした手を止めて追川を見上げた。
 確かにあの指輪はダイヤがたくさんついていたし、デザインも洒落ていた。
 注文している間も朔也が隠し続けたので実際の価格はわからないが、葉月の給与三ヶ月分どころではないはずだ。

 ──朔也くん、嘘っぽくしたくないからケチな指輪は贈らないって言ってたけど……そこまでする必要、あったのかな。

 何か他にも理由がある気がして、胸がざわつく。

「先生、ベタ惚れって感じでしたよね。私、興味津々になっちゃって。失礼ですけどぉ、どうやってあんなエリート弁護士捕まえたんですか?」

 葉月のそばに立ったままの追川が、表面上は気さくに笑った。
 こちらを見下ろす目が「お前に負ける意味がわからない」と言っている。

 ──うっ……これが目的か……。

「ぜひご高説賜りたいです! 何か裏技的なものがあるんですよね、今後の参考にできそう~」
「いえ……その、とくには」
「もったいつけてないで教えてくださいよぉ。あー、もしかして雨宮先生の弱みでも握っちゃったとか?」

 冗談にギリギリ収まる範囲で繰り出される嫌味に心を抉られながら、葉月もどうにか微笑んだ。
 怒りを感じないと言えば嘘になるが、追川は朔也の依頼者だからことを荒立てたくない。

 ──クレーム客と一緒だ。我慢強く話を聞いてれば、勝手に満足するはず……。

「弱みなんて握られてませんよ。心は掴まれてますけど」

 葉月が腹をくくったそのとき、皮肉めいた声が割り込んできた。
 いつの間にか扉の内側にいた朔也が追川の前まで歩いてきて、彼女に冷たい視線を向ける。

「さ、朔也くん」
「嫌な思いをさせてすみませんでした、葉月さん」
「……っ、雨宮せんせぇ、あの、違います。私──」
「言い訳は結構です」

 ぴしゃりと遮られ、追川は顔を引きつらせた。

「なぜ私が彼女を好きになったのか、でしたね。話していてわかりませんでしたか? 感情で客をいじめるような愚かな人と違って、葉月さんは心が綺麗だからですよ」

 朔也がわずかに唇の片端を上げる。
 その冷酷な微笑みに、それを向けられていない葉月まで背筋が寒くなった。

「追川さん、ご自分が何をなさったか理解されていますか? 婚約指輪を購入するのは一生に一度しかない幸せの瞬間です。あなたはそれを壊しました。顧客を不快にしただけでなく、注文の内容まで漏洩した」
「でも、だって……」
「言い訳は結構です、と申し上げたはずですが」

 朔也の淡々とした声がいきなり怒気を含んで低くなり、追川がびくっと肩を震わせる。
 好きな男に突き放されたからか、この先の身の破滅に気づいたからか、彼女の顔が崩れるように歪んだ。

「ご、ごめんなさい、雨宮先生……」
「私に謝ることですか?」
「え……」
「あなたが謝罪する相手は他にいるでしょう。ごめんなさいなんて軽い言葉じゃなく、誠意を持って伝えるべき相手が」
「い、いいよ、朔也くん。私気にしてないから」

 葉月は迫力に圧されて黙っていたが、朔也の剣幕に慌てて彼を止めた。

「いいえ、いけません」

 しかし、朔也は追川から目をそらさない。

「葉月さんは俺の大切な婚約者です。黙ってられない」

 その厳しい横顔に、思わず葉月の鼓動が跳ねた。

 ──ち、違う。私は本当の婚約者じゃない。朔也くんは演技をしてるだけだ……!

 理解しているはずなのに勘違いしてしまいそうで、頬が熱くなる。

「……っ、お客様。たいへん、申し訳ございませんでした……」

 追川は悔しげに唇を噛み、葉月に深々と頭を下げた。
 朔也が小さく溜め息をつき、ようやく葉月を見る。彼の気迫が葉月にだけふっと緩んだ。

「葉月さん、許してあげられますか?」
「う、うん」

 絡まれた相手からしっかりと謝罪されたのは初めてで、葉月は困惑しつつも頷いた。
 追川が葉月を睨もうとするが、朔也がその間に立ちはだかる。

「じゃあ、行きましょう。もうここにいる必要はありません」

 朔也は葉月に立ち上がるよう促し、肩をそっと抱いた。
 温かくてたくましい腕に守られ、また葉月の心臓が震える。

「追川さん。私は許していないので、そのつもりで」

 朔也の笑顔に追川が怯えた表情になったが、葉月は朔也に遮られてそれを見ないまま応接室を出た。
 鼓動がどんどん速まり、もう朔也しか目に入らない。

「助けてくれてありがとう、朔也くん……」
「礼なんていりませんよ。ちゃんとやってれば回避できたトラブルですから」

 横顔を見上げると、朔也がにこりともせず言う。
 その反応の懐かしさに、胸の奥が甘く疼いた。

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