もうすぐ大曲がりですね

島倉大大主

もうすぐ大曲がりですね

「もうすぐ大曲がりですね」

 か細い声だった。
 電車は満員で、酷く臭かった。臭いの元は隣に座っている女だと思われるが、とにかく疲れていたので俺は耐えていた。
「もうすぐ大曲がりですね」
 また同じ言葉だ。前に立って同じような顔をしている同じサラリーマン達が、ちらりと隣の女を見る。
 夏だというのに長袖長ズボンで、コートのようなものまで羽織っている。茶色いマフラーから見えている顔半分は青白い。
 冷房の効いた車内では異様だ。
 もしかしたら病気なのか。目がとろんとしている。
 電車に乗った時は、席が空いているのが嬉しくて、臭いにまで頭が回らなかった。席を移ろうと何度か思ったが、冷房で臭いが飛び、耐えられるような気がして、結局今に至るのだ。
「大曲がりまで行ったら、どうなるんでしょうね」

 大曲がりとは、××駅と○○駅の中間にある大きなカーブの事で、電車はいつもここに結構なスピードで突っ込む。俺たち乗客は倒れないように吊革や鉄柱に捕まり耐えなくてはいけない。
 それが嫌だから皆座ろうとするのだ。

「大曲がりまで行ったら――どうなるんでしょうね」
 女はそう繰り返すと、ぽそぽそと喋り続けた。


 正気と狂気の差というのは、凄く薄いのでしょうね。
 例えば、私の弟は鼻をほじる時に、時々いつもより指をぐっと押し込んだり、爪を立てたりするんです。そんな事をすれば炎症を起こして、鼻が腫れるのは判ってるはずなのにね。
 でも、今回だけは大丈夫だ、もうちょっとなんだって言う――これって狂ってますよね? 
 どうして自分だけは、今回だけは大丈夫だなんて思うんでしょうか。
 あの人もね、多分そうやって、今回だけは大丈夫だ、とか思って狂気を貯めていったんでしょうね。で、それが溢れてしまった。どっと溢れたんじゃなくて、心の縁から糸を引くように溢れ始め、やがて――
 まあ、想像ですね。
 ともかく私が運ばれた時に、あの人は一人だったんです。管轄の関係なのか、一人が好きなのか、ブラックな職場なのか、そもそも一人でやるものなのか、そこは判りませんが、ともかくあの人は一人で私と向き合ったんです。
 私は他に比べて、奇麗だったようです。
 あの人は私の手や足をじっくりと観察し、押し、測り、書類に書き込み、やがて撫で始めました。
 あの人は微笑み、時計を見ました。
 午後の四時。
 良いタイミングだ、とあの人は言いました。
 あの人は一度部屋の外に出ると、大きな紙袋を持って戻ってきました。
 さあ、みんなを驚かせよう、そう言って針に糸を通すと、私の腕を縫い始めます。
 きっちりとではなく、緩く縫うのです。
 首は動かないように、しかし、すぐ折れるようにと割り箸を芯にしました。
 そして紙袋から出した服を着せられ、コートや襟巻を巻かれ、私は車椅子に乗せられ裏口から外に出たのです。
 目指すは無人駅。
 この時間ならば誰もいません。
 私は電車のシートの端っこに座らされました。仕切り板に体の半分を預ければ多少の揺れでも平気です。
 ただ、冷房が効いているとはいえ臭いは防げません。そこは皆さんに、大変申し訳なく思っております。
 それで、あの人ですが、多分まだこの車両に乗っていると思うんです。
 無人駅を出発して、しばらくはそこの角に背を預け、私をじっと見てましたから。
 お客さんが徐々に増え、××駅で帰宅ラッシュで満席になりますと、あの人は見えなくなりましたが、まだ多分、そこに立って私を見ていると思うんです。
 あの人はこう言いました。

 ――大曲がりまで行ったら、みんなどんな顔をするんだろう。楽しみだなあ――


 女はまだ何かを話している。
 俺は横目で女をちらりと見る。
 電車の振動で、頭がぐらぐらと動いている。

 動きすぎじゃないか。もしかして――割り箸が折れる寸前――いやいやしかし――

 俺は前に立っているサラリーマン達を見る。
 皆真っ青な顔で、女を見ている。
 俺の幻聴ではないのか。

 この酷い臭いと――がたん、ぐらぐら――今、ありえない角度に頭が傾いだような――サラリーマンの一人が離れようともがく――おい、押すなというイラついた声――誰かの笑い声――俺、いや女から見て隅の方――電車が揺れる――人混みが動き、その隙間から、こっちをじっと見て笑っている男が見え――

 ぶしゅーっとブレーキ音が聞こえ、やや減速しながらも結構なスピードで走り続ける電車は傾き始める。

「ああ」

 女の声が、『耳のすぐ近く』で聞こえる。
 臭いが一段と強くなり、何かがぽきりと折れる音が聞こえ、俺は意地でも前を見続けようとし――サラリーマン達が顔を歪め、口を開け、声を絞り出そうとし――

「やっと大曲がりですね」

 女と俺は、『一瞬だけ』目が合った。

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