Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―
monologue,4 想いを託されたシューベルト《4》
『この遺言書を読んでいる、ということはわしはようやくくたばったということだろう。
ねね子……いや、鳴音はちゃんと、遺言書の在り処がなぜここにあるか、理解しただろうね』
冒頭には須磨寺の筆跡で、ネメへの言葉が綴られていた。
『相続手続きにはまず、戸籍謄本が必要になる。鳴音には婚姻届に署名してもらったが、わしはそれを役所に出していない。本籍地だけをここに移した。だからお前は鏑木鳴音のままだ。わしが死んだからといってバツイチの未亡人だと囁かれることもないだろう。お前はまだ若い』
読み上げるネメの手が震えている。
『この土地とピアノは鳴音に渡すが、生きていくためにお金が必要なら売っても手放しても構わない。それともお前が愛するシューベルトがすでに土地とピアノを押さえていたりしてな』
シューベルト、の言葉にネメが目をまるくする。
俺もまさか須磨寺が遺言書でシューベルトについて言及しているとは思いもしなかった。
『屋敷にある骨董品のうち、三つの壺を雲野の親父に、峰子が編んだひざ掛けと一緒にくれてやれ。あの男のふたりの息子には、銀のネクタイピンを』
紡と弟の名前の下に、銀のネクタイピンのことが書いてある。
小さいころから屋敷に遊びに来ていた紡は、須磨寺にとって息子のようなものだったのだろう。雲野一家にも形見分けをしっかりしていたことに、俺は安堵する。
『それから、紫葉の調律師の男……添田が教えてくれたが、彼がお前のシューベルトだったんだな。調律に来た際にお前たちが見つめあう姿を見て、わしも気づけたよ。三年間、鳴音を独り占めしていて悪かったね』
まるで遺言書をネメと俺が一緒に読んでいることまで予知していたかのように、彼の言葉はつづいていた。
『鳴音はいつだったか、わたしはシューベルトの妻になりたかった、と言っていたね。貧乏だったから結婚を諦めたシューベルトの恋人に反発したお前の姿を見て、わしは一時的とはいえ法的に縛ることはできないと思ったのだよ。今度こそ愛する男と幸せにおなり。ネメの気持ちが彼にあることが第一だが、わしからも遺言書という最強の切り札で頼みたい』
須磨寺の手紙の結びに、俺の名がフルネームでしっかりと記されている。
『紫葉礼文、彼方に“星月夜のまほろば”別荘地および屋敷の土地と三台のピアノを、内縁関係にあった大切な鏑木鳴音とともに託す――須磨寺喜一』
日付は彼が死ぬ五日前。俺が屋敷のピアノの調律に訪れた翌日になっていた。
ネメはすでに言葉を失っている。
遺言書を読み終わった彼女は、嗚咽を漏らしていた。
* * *
リビングのソファで遺言書を読んでぽろぽろと涙を零しつづけるネメを抱きしめ、背中をやさしくさすりながら髪や首筋にキスをしていくうちに、俺の心は凪いでいく。
「……ネメ。もしかして泣くほどイヤなことが書いてあったのか?」
「違うわよ莫迦……こ、これは、嬉し涙なんだからっ」
「知ってるよ」
「ぅうっ……わたしは、彼に、何もして、ないの……に」
「何もしてないわけないだろ。須磨寺は自分の死を看取ってくれたお前に感謝しているはずだ。ショパンの別れの曲を弾いたのはお前だ。それ以前にも、きっと彼はネメのピアノに救われているはずだ」
「ど、どぉしてアキフミがぞんなごといえるのよ……っ」
泣きすぎて濁音が入り混じった彼女の言葉が、こんなときなのに可愛く思えて俺はついくすくす笑ってしまう。突然笑い出した俺を見て、ネメの涙がぴたりと止まる。
「――ネメ。須磨寺の人生の大半はピアノとこの軽井沢の地でできているんだ。愛する土地で大好きな曲を奏でてくれる自分だけのピアニストに傍にいてもらうことが叶った彼は、幸せ者なんだよ」
「……そうなの?」
「ああ。羨ましくて俺が嫉妬するくらいに」
ピアノを愛し、軽井沢を愛した男、須磨寺喜一。
彼はネメのことを身近な人間の間では後妻扱いしていたが、世間からは隠したまま、逝ってしまった。莫大な遺産を相続することになった彼女を試すべく、雲野の倅がちょっかいを出してきたわけだが、俺とネメのことを知ったからか、一緒に遺言書探しをはじめたことで彼の態度は軟化、結局壺三つとひざ掛けとネクタイピンふたつという形見分けで落ち着き、残りは遺言書にあるとおり――ネメごと俺に託されることになる。
「羨ましい?」
「俺が死んだときも、そんな風に泣いてくれるか?」
「なんでアキフミが先に死ぬのが前提になってるの!? やめてよどこかでへんなキノコでも食べたの?」
「食べてないって……」
泣きたいのは俺の方だ。
前の夫にこんな風にお膳立てさせられて、躍らされて、彼の想い通りにネメを動かして。
俺は土地とピアノとネメを彼から託されてしまった。そうなるように努力した結果だと素直に言い切れないのがなぜか悔しい。
それなのにいま、こんなにも彼女が愛おしくて。
俺はつい、余計なヒトコトを口にしてしまう。
「だけど、お前のことはもっと食べたい」
「……それいま言う?」
遺言書を桜色の封筒に丁寧に戻したネメはテーブルに置いて、怪訝そうな表情で俺の方へ顔を向ける。須磨寺のために泣いていた彼女は、俺の言いたいことを理解してカッと頬を赤らめる。
「無事に遺言書も見つかったことだし、ふたりきりの夜もまだまだはじまったばかりだ。すこし早い婚前旅行ってことで……」
「っ、婚前旅行? ぁっ、ガウンの紐とらないで……っ!」
彼女を無防備な状態にして、俺はソファの上で、ネメを堪能するのだった。
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