Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―
monologue,4 想いを託されたシューベルト《1》
俺が助け舟を出す間もなく、ネメは詩を退散してしまった。
さんざん心もとないことを言われたというのに、彼女は毅然とした表情で「言いたいことはそれだけでしょうか?」と反論をはじめたのだ。
顔を真っ赤にして言い返す詩と、それを面白そうに観察する妹、そして平然と「アキフミは腐った音が嫌いなの」とダメ押しの一言を口にするネメ。
「……今日のところはここで勘弁してやるわっ、覚えてなさいっ!」
まるで悪役のような捨て台詞を残して、詩と詞の姉妹は俺たちの目の前から姿を消してしまった。きょとんとするネメを見て、俺は思わず笑いだしてしまう。
「ちょ、ちょっとアキフミ。聞いていたなら何か言ってよ!」
「言わなくても、大丈夫だったじゃないか」
「だ、だけど……」
「――悪かった。お前を不安にさせてしまったな」
緊迫状態を脱したからか、ふぅ、とネメが椅子にくずおれる。そんな彼女を見て、まだまだ自分は彼女を守れていないなと痛感する。
「俺がこの場で黙らせたところで、きっと彼女はお前に牙を剥くだろう? だから俺はお前の出方をうかがったわけだが」
「うん……そんな気がした。だから、逃げなかったよ?」
詩の妹の詞がネメに向けて「逃げてもいい」と合図を送っていたのには気づいていた。もしかしたらネメをその場から逃がすことで、俺と詩の痴話喧嘩にしてしまおうとでも考えたのかもしれない。姉と比べて妹の方がまだまともに見えるな、と思ったのはここだけの話だ。
「逃げなかったのは偉いが……身体が震えているのは気のせいか?」
「だ、だいじょうぶ、だから」
「……そうは見えないぞ」
「それより――ピアノ、弾きたい」
その、ネメらしい言葉に思わずぷっと吹き出してしまう。
嫌なことがあったら、ピアノを弾いてストレス発散すると、高校の時に言っていた気がする。
きっと今は、俺の言葉よりも物言わぬピアノの前で、無心になって指を動かしたい気分なのだろう。
「わかった。大急ぎで屋敷に戻ろう」
俺の買い物は終わっているし、もうひとつの方は別の日でも構わないだろう。
彼女が選んでくれたピンクのネクタイで、俺は彼女との婚約を発表するつもりだ。
その前に、義父に彼女を認めさせたり、須磨寺の遺言書を探し出すのが先だが――……
「玄関のグランドピアノで、思いっきり弾けばいい」
まずは愛する彼女に、ピアノを弾かせるのが先だ。
* * *
彼女が選んだのはハノンだった。あの、一番から六十番まで淡々とつづく呪詛のような練習曲集を、玄関のグランドピアノの譜面台に乗せて、最初から最後まで無心になって弾きつづけている。
ネメがウォーミングアップがてらハノンを弾くのは見たことがあったが、こうして最初から最後まで淡々と指示通りに弾いていくストイックな姿を見たのは初めてである。
それだけ心を無にしたくなったのだろう。俺がスツールに腰掛けて彼女の演奏を凝視していても、彼女は自分のピアノに夢中で気づかない。
――大勢の人前でピアノを弾くのが怖くなった、と彼女は言っていた。
須磨寺と軽井沢で過ごした日々を通じて、ピアノをふたたび楽しむことはできるようになったというが、コンサートホールの舞台でもう一度ピアノを演奏できるかといえば、それはわからない、という。俺と結婚したら、パーティーの席やちょっとしたもてなしでピアノを演奏することもあるかもしれない。そのとき、俺は彼女を支えることができるだろうか。
それでも――詩みたいに自信満々で勘違いも甚だしい演奏をすることはないだろう。
ハノン六十番まで一時間足らずで弾ききった彼女は、はぁはぁと喘ぎながら次の練習曲集の譜面を取り出し、指を動かしはじめる。須磨寺がすきだったというショパンだ。
ピアノの詩人、と呼ばれたショパンの作曲はロマン派というだけあって幻想的なものから情熱的なものまで多種多様だが、彼が死の間際に「別れの曲」をネメに弾かせたというはなしを添田から耳にしただけで、俺は嫉妬してしまった。法的にも肉体的にも繋がりはなかったのに、須磨寺とネメは三年の間に夫婦として心を寄せ合っていたことを思い知らされたみたいだったから……
――だけど、いま彼女が想ってくれているのは俺だ。そうだと信じたい。
ネメがいま弾いているのはたぶん第八番だろう、ヘ長調のとてつもなく指を動かす練習曲である。瞳をとじれば美しい旋律が清らかな奔流となって体中に染み渡っていく。
「……アキフミは、ショパンはそんなにすきじゃなかったっけ」
「ネメが弾いてくれるなら、なんでもすきだよ」
俺が黙り込んでいたからか、第八番まで弾きおえた彼女が心配そうに顔をこちらへ向ける。
まるで軽い運動をしてきた後のように、彼女の顔は赤らみ、額はうっすら汗ばんでいる。
その艶っぽい表情を見るだけで、俺の愚かな下半身は反応してしまう。
「――じゃあ。久しぶりに一緒に弾かない?」
ショパンの譜面を閉じて、譜面台をまっさらにしたネメは、出鱈目なコードを弾きはじめる。
高校時代にピアノ室でセッションした思い出が蘇る。遊びながら名曲をふたりで奏でて、その音で互いの想いを確認し合った、俺と彼女の青春の一コマ。
俺はスツールから立ち上がり、ネメの隣にゆっくりと座る。
「……曲は?」
「Rondo for Piano Duet in D,D.608」
「シューベルトか」
「一台四手の連弾といえばシューベルトでしょ」
「譜面は?」
「必要?」
身長の割に長い彼女の白魚のような指が俺の両手を導くように周囲の鍵盤を叩いていく。
シューベルトは短い生涯において四手のための連弾曲を三十以上残している。俺とネメが高校時代に練習しまくったグラン・デュオの数々……そのなかから今日のネメはロンドを選択した。
「十年近く前に弾いたっきりだぞ? それに俺、課題曲以外暗譜してねぇし」
「いいから弾くの!」
失敗しても構わないから、と笑いながらネメが高音部の演奏を一方的にはじめていく。
これはもはやシューベルトの皮を被ったジャズセッションだ。
俺も意を決して指を滑らせる。彼女の思い通りにはさせないと、リズムをわざと崩しながら。
「あ、こらっ!」
「いい子ぶった演奏だけじゃ疲れるぞ。俺と一緒に弾くときくらい、ピアノで遊べ」
「もうっ!」
重なり合う指が同じ音を取り合ったり、不協和音を奏でたり、散々な演奏は十分以上つづいた。
住み込みの家政婦たちがふだんとは異なるがちゃがちゃした音楽に驚いている。
いまの俺たちは音を楽しんでいた。音楽という単語そのとおりに。
「まあいっか。楽しいから!」
玄関のグランドピアノが唸らせた音楽が屋敷じゅうに轟く。それはしっちゃかめっちゃかでありながら、たしかに生きている、俺たちにしか出せない生きた音、だった。
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