Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―

ささゆき細雪

chapter,4 シューベルトと初恋花嫁の秘密《5》




 アキフミが運転する車で連れてこられたのは、軽井沢にできてまだ新しい大型アウトレット施設だった。仕事で着るネクタイを選んでほしいと頼まれて、紳士服の店でわたしはブルーグレイのネクタイを選んであげた。そういえば、まともなスーツを着て仕事している彼の姿は数回しか見たことがない。屋敷での彼は常にラフな格好だったし、再会したときは夫の葬儀でブラックフォーマルを着ていたのだから。

「社長のネクタイを選ぶなんて、重大なお仕事だね」
「そう深く考えなくていいよ。俺はネメが選んでくれたネクタイをつけたいだけだから」

 なんだかすでに社長夫人みたいだ、と心のなかで呟いて緊張していたわたしは、アキフミが持っているダークグレーのスーツを思い浮かべながら、なるべく失敗しないようにベーシックな色味を選んだつもりだ。
 そんなわたしを面白そうに見つめるアキフミは、「せっかくだからもうひとつお願いしようかな」と陳列棚に並ぶネクタイを指差してわたしに迫る。

「ひとつでいいんじゃなかったの?」
「そんなわけないだろ。これから表に出る勝負服の準備をしたいんだから」
「勝負服?」
「これが俺の妻だ、って紹介する際にお前が選んだネクタイをつけて臨みたいんだよ」
「――本気?」
「だから地味で上品なネクタイもいいんだけど、もうすこしパンチの効いたネクタイが」
「じゃあ、これなんかどう?」

 先程失敗を恐れて地味で上品なものを選んでしまったわたしは、彼の言葉を遮るようにピンク色のネクタイを指差す。グレーのスーツなら意外とピンク系でも似合うだろうな、でもアキフミがピンクをつかうのは想像できないな、と思った矢先の彼の指摘だ。てっきりそれはないだろうと顔を顰めるだろうと思ったのに……

「わかった、これも買う」

 そう言って、彼はあっさりわたしが選んだ二本のネクタイをレジへと持っていったのだった。


   * * *


 途中、軽食をはさみつつ午後三時までショッピングを楽しんだわたしたちは、そのまま軽井沢駅から車ですぐのところにある雲場池に行った。王道観光スポットなどと呼ばれる軽井沢の雲場池だが、恥ずかしながら三年間暮らしているにもかかわらず一度も訪れたことがなかったのだ。

「それは仕方ないだろ、屋敷のある北軽井沢で無免許で暮らしていたんだから、そう簡単に出歩けなかったわけだし」
「買い出しや夫との付添で旧軽井沢方面は何度も行ってるんだけど、新軽井沢や開発が進んだ中軽井沢のリゾート地の方って実はよくわからないの」
「それじゃあ、これからもたくさんデートしようか……お互いの仕事の合間に」
「うん!」

 落葉松や紅葉が青々と茂るなか、水鏡が美しい雲場池の景色と、マイナスイオンを満喫しながらわたしとアキフミは手をつないで池の周囲を散策する。ひとまわりするのに三十分弱という散歩コースにはカメラや画材を片手に持った観光客の姿も目立つ。それでも中途半端な時間帯だからか、混雑はしていなかった。野鳥のさえずりや、木漏れ日に癒されながら、わたしとアキフミは森林浴を楽しんだ。
 陽光に煌めく水面は水鏡と呼ぶに相応しく、はじめて見たわたしを圧倒させた。
 アキフミと一緒に見た景色は、新鮮で、清らかで、自分の心を弾ませてくれる。

「……なんだか信じられない。こんな風に、大人になったアキフミとデートしているなんて」
「俺も」

 教室やライブハウスでピアノを弾いたことはあったけれど、それ以外の場所でこんな風に、ふつうの恋人同士がするようなデートなど、今までしたことがなかった。
 雲場池のほとりにあるレストランの木陰のテラス席に座って、緑に囲まれた場所から外の景色を堪能しているわたしを、アキフミがクリームたっぷりのウインナコーヒー片手に楽しそうに見つめている。

「――月曜日は“星月夜のまほろば”でふたりだけの宝探しだな」
「え? 立花さんも来るんじゃなかったの?」

 わたしが驚いた顔を見せれば、彼は声のトーンを落として、ぽつりと呟く。

「紫葉の、東京本社から呼び出しが来た……両親がついにしびれを切らしたらしい」
「そうなの?」
「数日は粘るつもりだ、って言っていたけど……下手するとこっちに乗り込んでくるかもしれないな」

 アキフミの両親が自分に逢いたがっている――わたしが彼の花嫁に相応しいか見定めるため?

「それか、お前を東京に連れて来いと、命令してくるか……」
「どっちにしろ、顔を見せないといけないってことよね」
「ああ。だからその前に、どうしても須磨寺の遺言書を探したい」

 遺言書に書かれている内容次第で、アキフミの駒は変化する。
 わたしがバツイチじゃない、事実婚関係にあったという戸籍謄本はふたりの結婚を認めてもらうための立派な武器になるが、それだけでは心もとないのも事実だ。
 実家から除籍された天涯孤独の元ピアニストが手にするであろう遺産を、内縁の夫はどう相続させるのか。たったひとりに託すのか、それともほかの人間にも分け与えるのか……
 添田はアキフミの名前も書いてあるだろうと言っていたけれど、紡の名前が書いてある可能性だってまだ捨てきれない。土地とピアノをはじめとした夫にまつわる全財産を分配するとなると、他の人物の名前も記されているかもしれない。

「たぶん、遺言書自体はすぐに見つかる場所にあると思うの。わたしの本籍地を“星月夜のまほろば”三号棟にしたのは、きっとそこに……が」

「あら、礼文さまじゃありません? このような場所で奇遇ですわね!」

 ぽつりと零したわたしの言葉は、甲高い第三者の女のひとの声に、かき消されていた。

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