Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―
monologue,3 唯一の愛を乞うシューベルト《5》
逃げるように帰った紡を庇うネメを見て、俺の怒りは更に膨らんだ。俺は彼女なしでは生きていけないというのに、彼女は俺がいなくても平気なのだろうか。そんなことを感じて応接間で彼女を押し倒し、ネクタイで手首を拘束したままお仕置きをするかのように激しく抱いてしまった。
俺の醜い嫉妬を身体で受け止め、涙を流しながら意識を飛ばした彼女を見て、やらかしてしまったと気づいても後の祭り。
寝台に運んで夜着に着替えさせ、何事もなかったかのように振舞ったが、応接間で男女の濃厚な情交が行われていた事実は消せない。いくら愛人契約を結んでいるとはいえ、無体なことをさせるのはどうかと思います、と添田に窘められてしまった。
その後、俺だけ夕食を食べ、一風呂浴びたが、その間もネメは死んだように眠っていた。屋敷の電気が消される午後十時を過ぎ、添田や家政婦たちも各々の部屋へと戻っていったため、俺も渋々寝室へ戻った。
あどけない顔で眠りつづけるネメを見ていると、さきほどまでの激しい行為が嘘のようだ。
けれど、彼女が休んでいる寝室にいたら、眠っている彼女に手を出してしまいそうで怖い。
心を落ち着かせるためにもピアノを弾きたいが、この部屋のピアノを弾いたら、きっと彼女を起こしてしまう。
それならば下階にあるピアノを弾けばいい。防音効果のある応接間なら、誰にも気づかれることなくこのストレスを発散させることができるはずだから。
――そう思ったのに、ネメを起こしてしまった。
「相変わらず、繊細でキレイな音を出すのね」
「お前ほどじゃないさ……さっきはすまない。身体は大丈夫か」
気まずい気持ちになった俺はドビュッシーの「月の光」をゆっくり奏でながら、ネメに問いかける。大丈夫、と首を振って彼女は申し訳なさそうに口をひらく。
「ごめん……考えが足りなかった」
「ネメ」
「紡さんから、学生時代の彼方のことをきいたわ。わたしが音大に行ってピアニストデビューした頃のこと」
「……あいつ、なんか変なこと言ってなかったか」
「シューベルトになる、って公言してたって」
――な!?
どうやら紡は、ネメの知らない俺について暴露していたらしい。
「公言はしてない……けど、ライブハウスの仲間にはよく話したかもな」
「ジィンとか?」
「あー、そうだな。仁が経営するライブハウスの土地はもともと雲野のとこのだから、きっと噂に尾びれがついてとんでもないことになったんだろう」
「うわさ?」
「そ。ネメが音大に入る前後かな。俺の母が紫葉不動産のトップと再婚したことで、俺のことをやっかむ奴らが“シンデレラボーイ”なんて呼ぶようになって……そのときに俺はシンデレラなんてタマじゃねぇ、シューベルトになるんだ、って」
「なにそれ」
「お前のせいだぞ」
「わたし?」
「――言ったよな。シューベルトの妻になる、って」
脳裡に蘇るグランデュオの壮大な二重奏。俺と連弾した第四楽章のことを、ネメも覚えていたらしい。ふわりと顔を綻ばせて、恥ずかしそうに頷いた。
「……覚えてる」
「あのときから、俺はシューベルトになって、ネメを妻にするんだ、って」
「それで、ピアニストになったわたしの熱狂的なファンになったの?」
熱狂的、かはわからないが、たしかに調律師仲間やバンドでつきあいのあった仲間たちには推していた気がする。俺は彼女の鳴らすピアノの音がすきなのだ、と。
「デビューのときにシューベルトのセレナーデを弾いていただろ? それだけで天にも昇るような気持ちになった。夢を叶えて世界へ羽ばたいていくお前が眩しかったし、誇らしかった」
「でも」
俺が誇らしいと言ったところで彼女は困った顔をするだけ。
どうすれば彼女にこの熱い気持ちを伝えられるのだろう……そう考えるのと同時に、正直な言葉が口から飛び出していた。
「すきだ!」
脈絡のない告白に、ネメが目を丸くしている。そういえば彼女に結婚したいとは何度も言っていたが、すきだ、愛してると伝えたことは一度もなかった。
けれど、ネメは信じられないと口を噤んだまま、左右に首を振って拒もうとする。彼女の瞳が潤んでいることに気づいた俺は、勢いのままに言葉を紡いで、彼女に愛を乞うていた。
「すきなんだよ。ずっとずっと……ずっと。華やかな世界から退いたいまも、俺の気持ちは変わらないままだ。バツがつこうがつくまいが、俺はネメを愛人止まりにさせたくない……屋敷も土地もピアノもお前もぜんぶ俺が守るから、どうか、俺との結婚を本気で考えてくれないか――……」
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