Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―
monologue,3 唯一の愛を乞うシューベルト《4》
詩との見合いの翌日。
この日も本社から出向してきた女子社員の姿が数名社内で目撃された。詩との見合いが不発に終わったことを知った義父が、次なる手を考えているのか、それとも別のところからの刺客なのか……なんにせようんざりする。
一連の花嫁探し騒動に辟易していた俺は不機嫌なまま、その日の仕事を遂行していく。
「……昨日はいかがでしたか」
「立花はこのことを知っていたのか?」
騙し討ちのような見合いについて問い詰めれば、彼女は否、と首を振る。
「章介社長のことでしたら、何も聞いておりませんよ。ただ、多賀宮商事の社長と繰り返し会談されていたとの報告でしたら、夫の方から聞いております」
「そうか」
「多賀宮商事の、何番目のお嬢様でしたっけ」
「次女と言ってたな。何番目ってことはまだいるのか」
「たしかあそこは三姉妹ですよ。長女は父親の跡を継ぐために早くから婚約を整えていたみたいですが、甘やかされて育った双子の次女と三女の貰い手がいなくて困っているとか」
「そういう情報があるなら先に教えてくれ……突き放しておいてよかったよ」
複雑な家庭環境で育った俺からすると、両親からひたすら甘やかされた詩のような女性は扱いに困る。
はあ、とため息をつく俺に立花が苦笑を浮かべながら、鋭い言葉を発する。
「社長は結婚したくないだけなのですか」
「それはどういうことかな」
「まるで、結婚を決めた唯一のひとが既にいらっしゃるように見えたものですから」
立花に言われて、俺は目を瞬かせる。
俺の傍で仕事を見守ってきた彼女は、もしかしたら気づいているのかもしれない。
「……義父には言うな」
「あら、図星でしたか」
「俺が妻にしたい女性は、軽井沢でピアノを弾いている」
それだけ言えば、彼女はああ、と納得して黙り込む。
「なぜ、章介社長にお伝えしないのです。何か問題でも」
「……そうだな。問題がありすぎる……」
ネメを妻にしたい気持ちだけが先走っている俺は、彼女の背後にある遺産相続や紡との確執、そして彼女に正式に求婚できずにいる自分に苛立っている。無理矢理手に入れたところでバツイチの元ピアニストを遺産目当てで娶ったと他社から攻撃されかねない。
どうにかしたい。けれど俺ひとりでは限界がある。だから俺は立花に告げる。
「それでも、彼女を手に入れたいんだ」
「――軽井沢で夢中になっていたのはピアノではなかったのですね」
安心しました、と立花はくすりと微笑む。そして。
「なんのための社長秘書だとお思いですか? 社長の願いを叶えるお手伝いをするのも、私の役目ですよ」
頼もしい彼女の言葉に、俺は緊張の糸が切れたらしい。
ほろり、と目の奥から熱い水滴が零れ落ちる。
慌てて腕で目を拭えば、立花がふいと顔をそむけて小声で呟く。
「明日、社長だけ一足先に軽井沢へお戻りください。こちらでの仕事を片しましたら、後日私も応援に参りますわ」
「いいのか」
「これ以上、会社内を混乱させておくわけにはいきません。社長の手が必要なところはリモートで作業できるようにしておきます。あとは、お任せください」
* * *
東京を離れた俺は、軽井沢駅まで迎えに来た添田の車で屋敷に向かう。
身体にまとわりつくような細かい雨が降っていたが、傘をさすほどではなさそうだ。
七月上旬の梅雨まっさかりの軽井沢は天気が変わりやすく、一時的に観光客が減る。だが、瑞々しい緑の木々やいまの季節にしか咲かない花など、地元住民しか知らない魅力を味わえる季節でもある。“星月夜のまほろば”も今週は土曜日の二棟しか埋まっていないとのことだ。
「逆に、いまの季節なら別荘地を自由に探索可能です。喜一さまの遺言書を探す絶好の機会かと」
「……そうかもしれないな」
須磨寺の遺言書の内容を確認し、ネメの相続を見届けてから正式に土地売買の手続きをしたい、と添田に告げれば、それだけでよろしいのですか、と問い返される。
「彼女のことは、どうされるのですか」
「添田が考えている通り、ネメが俺を受け入れてくれているというのなら。俺は彼女に求婚する」
東京で、見合いをさせられたと言えば、添田も顔を青くする。彼は俺がネメを軽井沢に閉じ込めてこのまま愛人として扱うのだけはいただけないと、珍しく意見する。
「そんなことはしない」
俺は彼女が欲しくて、ここまで動いたのだ。法的な婚姻関係なくして、彼女を守ることはできないと、そう思っているから……須磨寺のように。
別荘地の門を通過し、山道をのぼった先に、白亜の城を彷彿させる屋敷がある。駐車場には見慣れない白い車が一台……誰か客人でも来ているのだろうか。
添田の車から降りた俺が耳にしたのは、繊細なピアノの音色。雨だというのに一階の応接間の窓が開いていた。そこから、ショパンが聞こえてくる。
「……雨だれだ」
「珍しいですね、奥様が応接間でピアノをお弾きになるなんて……紫葉さま?」
「様子を見てくる」
ネメが応接間でピアノを弾いたのは須磨寺の骨壺があったときだけだ。教会墓地へ納骨して以来、応接間でピアノなど彼女は弾いていなかったのに……
玄関ホールで家政婦と鉢合わせしたので話を聞けば、雲野さまがいらしている、とのこと。紡が、俺が留守の時に屋敷でネメのピアノを独り占めしている――!?
開きっぱなしの扉の向こうでは、ぼそぼそと話をつづけているふたりの声がする。
須磨寺の遺産相続に関する話だろう。俺は耳をすませて扉の近くで立ち止まる。
「……遺産を相続することはそう難しくない」
「ごめんなさい、あたまのなかこんがらがってきちゃいました……」
「いや。俺の方も憶測だけで盛り上がっちゃったから……そうなると、別の意味で厄介な問題が起きそうだから」
「?」
「よし、やっぱりネメちゃん、結婚しよう」
紡の声で、ネメが救いを求めるように扉へ視線を泳がせる。
もう我慢できないと俺は彼の前へ詰め寄った。
「――どうして俺が留守のときにお前が屋敷のなかにいるんだ? 紡」
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