Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―
chapter,3 シューベルトと夏の宝探し《6》
東京から戻ってきたアキフミに紡と応接間でふたりきりの状態で会話していたところを目撃され、その場でお仕置きのように抱かれたわたしが意識を取り戻したのは、応接間のソファではなくいつもの寝台の上だった。
「……アキフミ?」
倦怠感とともに、思い出すのは激しく抱かれた羞恥心。きっと、東京で見合いの席をセッティングされて、彼もまたイライラしていたのだろう。そこへわたしの裏切りのような行為だ。応接間のピアノで紡だけに演奏したことが、彼を失望させたのだろう。わたしはただ、思い出話をきく際にピアノの音があれば彼がリラックスしてはなしてくれるのではと思って弾いただけなのに……
ポロン、ポロンと遠くからピアノの音色が耳元に届く。
しとしと、しとしとと降っていた雨はいつしかやんでいたらしく、レースのカーテンで隔てた窓の向こうにはクリームイエローの鋭い三日月が浮かんでいた。
そうか、いまは夜なのか。
ゆっくりと起き上がり、身体の状態を確認すれば、すでに手首の拘束はほどかれ、服もふだん着ている夜着に着替えさせられていた。きつく縛られたわけではないので手首に痕はついておらず、彼がひどくしたのは夢だったのではないかと勘違いしてしまうほど。
「……キレイな音」
アキフミが奏でているであろうピアノの曲名は、ドビュッシーの「月の光」だ。
寝室で弾いていても別に構わないのに、と階下から響くピアノの音色を不審に思いながら、わたしはゆっくりと部屋の扉を開く。
寝室の掛け時計は夜の二十三時を示していた。添田や住み込みの家政婦たちはほぼ、眠っていることだろう。
真夜中に響く幽玄なピアノを、アキフミが淡々と弾いている。
室内の壁紙は消音機能がついているが、窓を開けっ放しにしていたから、そこからささやかに音が漏れたのだろう。繊細な音は、わたしが応接間の扉を開いた途端、ぱたりと止む。
「――ネメ。起きてしまったか」
「相変わらず、繊細でキレイな音を出すのね」
「お前ほどじゃないさ」
ふい、と気まずそうに顔をそらして、アキフミはふたたびピアノへ指を滑らせる。
わたしはソファに腰掛け、彼の演奏に耳を傾ける。
「……さっきはすまない。身体は大丈夫か」
ぽつり、と零された彼の言葉に、夕刻の情事を思い出し、顔を赤くする。
気を失うまで責め立ててしまったことを反省しているのかもしれない。
彼を先に怒らせたのはわたしの方なのに。
わたしはこくりと首肯して、小声で呟く。
「ごめん……考えが足りなかった」
紳士的な紡なら、部屋でふたりきりになっても問題ないだろうと判断したのはわたしだ。
それに、窓と扉は開けっ放しにしていた。何かあればすぐに添田や家政婦たちが入ってこれるように。
けれど、アキフミは不安だったのだろう。自分以外にわたしに結婚を迫るいけ好かない男がなぜかわたしのピアノをひとりで堪能し、遺産相続について語っていたのだ。その場面を目撃したアキフミが、我を忘れて憤ってしまったのは仕方ないことだ。
……身体で思い知らされたわたしは、もはや元の穏やかな生活に戻れないことを悟る。こんな風に、紡に身体を許せるだろうか? 驚きはしたが、アキフミだから、ひどくされても平気だったことに気づいて、わたしは俯く。
――自分が誰の手で快楽を教え込まれたかは、こんなにも明白。
ときに激しく、やさしく、甘く求められて啼かされて。わたしは未知なる官能の海に溺れてばかりで、その奥にある彼の熱い想いから逃げていた。
それなのに初恋は叶わない、叶うわけがないと思い込んでいるわたしを嘲笑うように、アキフミは愛を囁きつづける。亡き夫が与えてくれなかった女としての悦びとともに。
「ネメ」
「紡さんから、学生時代の彼方のことをきいたわ。わたしが音大に行ってピアニストデビューした頃のこと」
「……あいつ、なんか変なこと言ってなかったか」
「シューベルトになる、って公言してたって」
「公言はしてない……けど、ライブハウスの仲間にはよく話したかもな」
「ジィンとか?」
「あー、そうだな。仁が経営するライブハウスの土地はもともと雲野のとこのだから、きっと噂に尾びれがついてとんでもないことになったんだろう」
「うわさ?」
「そ。ネメが音大に入る前後かな。俺の母が紫葉不動産のトップと再婚したことで、俺のことをやっかむ奴らが“シンデレラボーイ”なんて呼ぶようになって……そのときに俺はシンデレラなんてタマじゃねぇ、シューベルトになるんだ、って」
「なにそれ」
「お前のせいだぞ」
「わたし?」
「――言ったよな。シューベルトの妻になる、って」
グランデュオの壮大な音楽が脳裏に蘇る。
それは高校時代、わたしとアキフミが課題で取り組んだ連弾曲のひとつ。
シューベルトの遺作となった四手のための演奏曲ソナタハ長調。そのなかのひとつ、十分弱の第四楽章をわたしたちは必死になって練習した。あのときのわたしは親に敷かれたレールに従うのがつまらなくて、腐った音を出しているとアキフミに叱られたんだっけ。
「……覚えてる」
「あのときから、俺はシューベルトになって、ネメを妻にするんだ、って」
「それで、ピアニストになったわたしの熱狂的なファンになったの?」
「デビューのときにシューベルトのセレナーデを弾いていただろ? それだけで天にも昇るような気持ちになった。夢を叶えて世界へ羽ばたいていくお前が眩しかったし、誇らしかった」
「でも」
「すきだ!」
アキフミが言うわたしは、そんなにキレイなものじゃない。両親を失ってピアノが弾けなくなって山奥に逃げ出して夫に匿ってもらったわたしは、アキフミの言葉に戸惑ってしまう。
けれど、彼はいまのわたしも含めて、すきだ、と叫ぶ。
「すきなんだよ。ずっとずっと……ずっと。華やかな世界から退いたいまも、俺の気持ちは変わらないままだ。バツがつこうがつくまいが、俺はネメを愛人止まりにさせたくない……屋敷も土地もピアノもお前もぜんぶ俺が守るから、どうか、俺との結婚を本気で考えてくれないか――……」
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