Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―

ささゆき細雪

chapter,3 シューベルトと夏の宝探し《1》




 六月最初の土曜日。
 北陸新幹線が走る線路沿いの国道を外れた、軽井沢駅へ向かう途中のプロテスタント教会で、夫の昇天記念日の祈りはささやかに行われた。
 大正時代より地域住民に愛されたこの教会は結婚式場で有名な軽井沢高原教会や石の教会、遠藤周作の戯曲「薔薇の館」の舞台として有名になった聖パウロカトリック教会などとは異なり、観光ガイドにも載っていないため、門戸を開いているとはいえ、礼拝に訪れるのは大半が地元の人間だ。
 平日はこひつじクラスの幼稚園の子どもたちが教会と隣接している園庭で楽しそうに遊ぶ声が聞こえるが、休日の今日はとても静かで、普段以上に神聖な空気が漂っていた。

「こんなところにも教会があるんだな」
「軽井沢はむかしから外国人が多く暮らしているから、教会もたくさんあるんですよ」
「江戸末期から明治にかけて外国の知識人や宣教師が軽井沢の旧宿場町を訪れていたって話ならきいたことがあります。当時からこの国の夏は異人さんたちを苦しめていて、湿度の低い爽やかな軽井沢が避暑地として選ばれたって」
「そのまま気に入って居着いてらっしゃる方もいますからねぇ。北軽井沢にはロシア正教の外国墓地もあるんですよ」

 得意げに語るのは添田が事前にお願いしたタクシードライバーだ。別荘をオープン状態にしているため、添田は本日“星月夜のまほろば”で管理責任者代理としてお留守番することになったのだ。わたしは免許を持っていないため、アキフミが車を運転しようかと言ってくれたが、地元の道に慣れていない彼に任せるのは不安だからと添田がドライバーを用意してくれた。ふだんは観光客相手に薀蓄を垂れ流しながら美味しいそばの店などへ連れて行ってあげているそうだ。

「須磨寺の旦那には若い頃世話になってるからね。まさかこんなに若くてべっぴんな奥さんがいたなんて、ほんと隅に置けない奴だなぁ」

 屋敷の外の人間から奥さんとあからさまに呼ばれることは滅多になかったため、なんだか自分ではないような気分だ。隣では窓の景色を眺めていたアキフミは目的地に到着してからも不貞腐れた表情をしている。だってわたしはこの教会の前でウェディングドレスを着て、わけがわからないまま写真を撮ったのだ。

「アキフミ。わたしが須磨寺の妻だったのは事実でしょ。そんなに変な顔しないでよ」
「……わかってはいたが、俺もまさかこんなにダメージを受けるとはな」

 苦笑しながらも強張っていた顔をどうにか戻してくれたアキフミを見て、わたしも頷く。
 目の前にはチョコレートブラウンの三角屋根の歴史的な建物があのときと変わらないまま鎮座していた。

「須磨寺さま、紫葉さま、お待ちしておりました」

 牧師がわたしとアキフミの前へ姿をあらわす。
 アキフミの手には夫の骨壷が入った箱がある。わたしが持つと言っても、彼は重いからと自分で運び出してしまったのだ。そんなに彼はわたしと夫に嫉妬しているのかと思うと、なぜか切ない気持ちになってしまう。

 ――今日の記念集会で夫の遺言書についての詳細がわかる、って添田さんは言っていたけれど、アキフミも知らないって言っていたし……どういうことなんだろう。

 用意された祭壇にはいまの季節にぴったりな涼し気な白と青の花が飾られていた。なかでも目立つのは、薄い紗を纏ったような深いドルフィンブルー……八重咲きのディルフィニウムだ。
 賛美歌をともにうたい、故人の想い出に花を咲かせる茶話会の後に、裏手にひっそりと佇む教会墓地にて納骨の儀が行われる。今日の昇天記念日にはわたしとアキフミの他に、“星月夜のまほろば”と契約関係を結んでいる会社のお偉いさんや、生前往診に訪れていた担当医、ヘルパーさんなど、急な葬儀の席に参列できなかった数人が来る予定だ。

 なかでも“星月夜のまほろば”と古くから契約している雲野うんのホールディングスの社長一家は夫だけでなく添田とも仲が良いらしく、遺言書を巡る経緯も向こうの方が詳しいという。死ぬ前に夫が託したと考えれば良いのだろうか……

「ねね子さん」
「はい?」
「このたびは……喜一さんがお世話になりました」

 黒服姿の男性に声をかけられ、顔を向ければ。
 想像していたよりもかなり若い、茶髪に明るい虹彩の男性が悪戯っぽく微笑んでいた。
 誰だろう。こんなに若い知り合いが、夫にいただろうか。

「あの」

 どちらさまですか? という問いかけは、わたしの隣で黙っていたアキフミに遮られてしまう。

「――つむぐ。なんでお前がここにいる」
「その言葉、そっくり君に返すよ。レイヴンくん。喜一さんの土地とピアノはいつから君のものになったんだい? たまたま、紫葉グループの金で買い叩いただけだろう? 継承すべき人物が傍にいるのに奪い取ろうとするなんて、正当な権利とは思えないんだけどなぁ?」

 たしかに、夫が亡くなってようやく一ヶ月だ。彼の場合、相続人はわたしひとりということになっているが、これから相続財産調査がはじまり、正式な遺産分割協議に入っていく。そこで必要になるのが彼が残した遺言書の存在だ。添田は遺産に含まれる土地の権利をわたしに断りなくアキフミに売り渡したことになるから、遺言書にそのような記述がない限り、彼らの行為は問題視される。

「な」

 紡、と呼ばれた青年はアキフミを激高させたかと思えば、くるりとわたしの方に向き直り、信じられない言葉を口にした。

「こうして逢うのははじめてでしたね。ねね子さん……いや、メネさんってお呼びしても? 俺は雲野紡。本日は父に代わり、喜一さんの遺言書探しを承るために参上しました。これ以上、紫葉の人間に好き勝手させないため。あと、もうひとつ」

 教会の祭壇の前で騎士のようにわたしに跪いたかと思えば、彼はうっとりした表情で告げる。

「俺と結婚してください」

 射殺さんばかりに睨みつけるアキフミと、それを気にしない紡に囲まれて、わたしは何も言えなくなる。とてつもない波乱の予感とともに、夫の昇天記念の儀式がスタートする。
 賛美歌も、牧師さんのありがたいお話も、ぜんぜん耳に入ってこない。ただ。
 
 ――夫の骨が、楽しそうにこちらを見ているような気がしたのは、きっと気のせい。

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