Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―
chapter,2 シューベルトと初夏の愛人《4》
プロテスタントにおける葬儀後の儀式は、昇天記念日に記念集会を行って祈りを捧げることになる。一週間、十日を目安に行うものだと添田は言っていたが、一ヶ月でも構わないだろうというアキフミの言葉で、一月後に教会で夫の記念集会を行うことになった。その際に、教会墓地へ骨を納めることも決定した。
「アキフミは、キリスト教徒なの?」
「いや。ただ、冠婚葬祭の場に出ることは多いから」
「なるほど。社長になると、その手のおつきあいも増えるのね……」
夫が亡くなって一週間が経過した。アキフミによって軽井沢の土地とピアノは買い取られたが、わたしをはじめ、添田や家政婦たちはこの場を追い出されることもなく、変わらない日々を過ごしている。唯一異なるのが、夫の代わりに若き主人と呼ばれるようになったアキフミが、わたしを傍に置いてともに生活をはじめたことくらいだ。
アキフミは最初の夜のようにわたしを抱くことはなかったが、ことあるごとにスキンシップをはかるようになっていた。身体に無理をさせたくないからと、ここ数日はキスとハグでふれあっている。
なんだかおおきな犬に懐かれてしまった気分だ。
「そういうお前は?」
「洗礼は受けてないわ。強制もされてない」
「けど、須磨寺とは教会で式を挙げたんだろ?」
「……それがね、式そのものはしてないのよ」
「はあっ?」
「添田さんから聞いてない? わたしがしたのはウェディングドレスを着せられて教会で写真を撮ったことと、婚姻届にサインしたことだけ」
「結局サインしたんだろ?」
「あ、あのときはパパ……父親のピアノを守りたくて、自分がどうなろうが構わなかったのよ」
「お前なぁ……自分を蔑ろにするなよ」
「わたしを愛人にするなんて言うひとに言われたくないわ」
ぷい、と顔を背ければ「愛人になるって言ったのはお前だろ」と、弱々しい反発の声。ピアノで大胆に愛を囁くくせに、こういうときのアキフミは迷子の子どもみたいで、自分が悪者になってしまったかのような気にさせられてしまう。
「拗ねないで、ご主人様」
「……拗ねてない」
ぽん、とわたしのあたまを軽く撫でてから、彼はピアノの方へ歩いていく。アキフミもまた、社長業務と調律師の仕事の傍ら、毎日欠かさずピアノの練習をつづけている。一緒に暮らしだしてからはわたしよりもピアノを弾く時間が長いかもしれない。
それだけ彼の指捌きは鮮やかで、的確で、うつくしかった。
彼が奏でる音には数多の感情が含まれている。わたしの前で披露するピアノの音色はいつだって切なくて、官能的で、生き生きとしている。朝露を浴びた花や、高原を翔ける風、小鳥たちの囀りに、降り積もる雪の情景までもが彼のピアノで表現される。
高校時代から変わらない、いや、それ以上に蓄積された努力家で秀才の彼らしい、腐ってない音色が、夫とは異なる意味で、わたしを癒やし、生きろとエールを与えてくれる。
「ずっと、ピアノ弾いていたんだ」
「お前のような超絶技法は無理だけど、弾いてないと腕が鈍るだろ」
「わたしももうプロのときのようなストイックな演奏は無理だよ。体力も筋力も落ちたし」
「ずいぶん痩せたもんな」
「そう、かな……」
「それだけ大変な思いをしたってことだろ」
ぶっきらぼうに応えたアキフミを見て、そうなのかと考える。ピアニストのときよりも健康的な生活を送れているからか、両親の死をきっかけにすとんと落ちたきりの体重は戻ることもなく、ぽっちゃり気味だった高校時代よりも薄っぺらい貧相な身体になってしまった。ピアニスト時代に着ていた胸を強調するようなドレスも、もはや着こなせないだろう。
――もしかして、わたしの身体が貧相になったから、アキフミはあの日以来、抱いてくれないの?
そう考えると、余計に惨めな気持ちになる。
愛人にして傍に置いてもらいながら、彼を満足させられないなんて。これじゃあ愛人失格ではないか。
夫を亡くしたわたしを同情しているだけなら、やさしくしないでほしい。甘い言葉とそのぬくもりに溺れてしまったら、彼に迷惑をかけてしまう。きっと彼はこの先華やかな世界に飛躍して、周りから認められるような素晴らしい女性を妻に迎えるだろうから……
「なあ」
アキフミの方が背も高いし容姿端麗だしいまのわたしなんかより舞台映えするはずだ。セミプロレベルのピアノ技術を持つ調律師で、社長にまでなった彼の存在こそ、マスコミが喜びそうなネタだと思う。もしかしたら既に婚約者がいるのかも。
わたしに関係を迫ったのは、“星月夜のまほろば”を手に入れる際に初恋の想い出を利用したかったからか、これ以上約束を燻ぶらせず、すっきりさせたかったか……どんどん悪い方向に想像力が振り切れて、わたしはひとり悄然とする。
「おい、ひとのはなし、きいてないだろ」
「……あ。なに?」
「ったく……ネメは、もう一度コンサートホールの舞台に立ちたいと思わないの?」
「夫と同じこと言うのね。わたしはもう隠居して別荘管理人として余生を送るって決めたの」
「……そう、か」
てっきりわたしがぼんやりしていたことを突っこんでくると思ったのに、アキフミはわたしの言葉を受けて、黙り込んでしまった。気まずい空気が、ふたりの間に漂う。
なんだか拍子抜けである。
* * *
添田にアキフミの愛人になった、と宣言したら複雑な顔をされてしまったが、特に反対はされなかった。事前にアキフミが根回ししていたに違いない。
アキフミも添田のことを重宝しており、ふたりの親子のような信頼関係に、わたしの方が妬きそうになる始末。
今日もふたりで軽井沢駅周辺の偵察に行くとか行かないとか。
わたしが楽しそうに本日の予定を語るアキフミをジト目で見つめれば、彼はそうだ、と軽く手を叩いて提案する。
「お前も来るか?」
「いいの?」
「紫葉不動産の長野支店に寄る用事が終われば、このあとはフリーだ。夕方までふたりでデートしよう」
「愛人なのにデート?」
「だから愛人愛人うるさいぞお前……」
はぁ、とため息をつくアキフミを見て、わたしは首を傾げる。いまさら恋人なんてキラキラした関係、高望みすぎる。
そんなわたしをやれやれと見やったアキフミは、添田に声をかける。
「そういうわけだから、車の手配、頼む」
「かしこまりました。紫葉さま」
恭しく新たな主へ一礼した添田は、珍しく、笑っているように見えた。
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