Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―
chapter,2 シューベルトと初夏の愛人《3》
夫の死からはじまった怒涛の二日間を経て、わたしの日常に紫葉礼文が入り込む――……
* * *
アキフミに、この軽井沢の土地と屋敷にある三台のピアノを守るために身体を明け渡した朝は、いつもよりも気怠くて、身体が重たかった。
――た、たしかに「愛人になってあげる」と言ったのはわ、わたしだけど。あんなに早急に寝室に連れて行かれて喪服を脱がされるなんて……これってふつうのことなの?
黒い服には何者にも染まらないという意味があるのに、それを脱がされてしまっては元も子もない。わたしは一糸まとわぬ無防備な状態にされ、寝台の上に押し倒された。思い出すだけでも顔に火が付きそうなほどの、甘い言葉を囁かれながら。身体中をまさぐられ、わけがわからないうちに未開通だった女の部分を、強引に、けれども慎重にひらかれた。
その、あまりの痛さに一瞬、意識を飛ばしたほど。
アキフミは最初から最後まで必死な形相で、わたしの身体にふれていた。唇だけでなく、身体中にキスされた。真っ白な肌に赤い花が散るほどに、強く吸われて、痕が刻まれたものが、いまもしっかり残っている。
――なんだか春の終わりの嵐のような一夜だった。だけど、夢じゃないんだよね。
寝室のアップライトピアノの椅子に座って、アキフミがエルガーの「愛の挨拶」を弾いている。
……いまさら気取られても、と苦笑を浮かべながらも、わたしは寝台の上で横になったまま、彼の演奏に耳を傾ける。
イギリスの作曲家エドワード・エルガーが作曲した「愛の挨拶」は八歳年上の婚約者アリスに贈ったホ長調の楽曲で、優美な曲想が多くの支持を集めている。朝に聴くちょっとしたクラシックとしても有名な曲だ。
「……たしかこの「愛の挨拶」のふたりは、反対を押し切って結婚したのよね」
「無名の作曲家と陸軍少将の娘だっけな。身分の違いと宗教の違いがあったみたいだが」
「詳しいじゃない」
「ネメほどじゃないさ」
まるで九年前に一緒に授業を受けていたときみたいに、気軽に言葉を交わしていた。
シーツを染めた破瓜の鮮血が、昨晩、彼に抱かれたことの証のように見えて、今になって恥ずかしい気持ちになる。そういえば自分はまだ裸のままだ。彼は既に着替えてピアノを弾いているというのに……!
ピアノ漬けだった自分に男女の機微など理解できない。けれど、紆余曲折あれど初恋の想い出のひとに、処女を捧げることができたので、きっとこれで良かったのだろう。まさかあんなに痛いなんて、想像もしていなかったし、事後の身体の気怠さもひどいけど。
「身体は?」
「最悪よ。こんなに痛いなんて知らなかった……」
「すまない。我慢できなかったんだ。次は気持ちよくする」
「次って……しれっと最低なこと言わないでくれる?」
「愛人になる、なんてことを言うお前が悪い」
「な、それってわたしのせい……なの?」
「さあな」
ぷいっと顔をそむけてふたたび演奏をはじめるアキフミの後ろ姿は、拗ねているように見える。愛人になると言っておきながら経験のないわたしに呆れてしまったのかもしれない。仕方がないではないか、ピアノが恋人の日々を生まれた頃からずっと、アキフミに出逢うまでつづけていたのだから。
夫もまた、ピアノが恋人のようなひとだった。持病のことさえなければ、アキフミのようにわたしを求めたかもしれない。とはいえ彼は結局、わたしを最初の妻の峰子の代替品として傍に置いてくれていただけで、わたしの身体に興味を持つことはなかった。
だからアキフミが処女のわたしを抱いて、何を思ったのかすごく気になる。夫の火葬が終わった夜に、まるで逃げ出さないようにわたしを抱いた彼。シューベルトの妻になると無邪気に口にしていたわたしはもう、ここにいないのに。愛人に成り下がったわたしでも、ほんとうに構わないというのか?
「……勝手過ぎるわ」
夫に罪悪感がないといえば嘘になる。葬儀を終えた夜に過去の男に抱かれたのだ、常識的に考えればぜったいおかしいに決まっている。
けれど添田はアキフミの味方らしい。そのことを考えると、自分の死後を添田に任せた夫も、アキフミがわたしを狙っていたことを知っていた可能性が高い。
何も知らないのはわたしだけ。なのにアキフミは素知らぬ顔をして、ピアノを弾きつづけるのだ。
今度はシューベルトのセレナーデ。
愛を捧げる楽曲はもう、お腹いっぱいだというのに。
わたしは観念して、布団のなかに潜り込む。
それでも彼の情熱的な演奏が、わたしを追い求めるように、深く深く、内耳に響く――……
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