Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―

ささゆき細雪

monologue,1 調律師になったシューベルト《1》




 ポーン、ポン、と軽やかに鍵盤を叩きながら、俺は「終わりましたよ」と添田に告げる。
 軽井沢に古くからある別荘地では、ピアノを所有している富豪も多い。ただ、別荘に定住していない所有者も多いため、お飾りになって埃を被ったまま、放置されている姿もよく見かけられる。
 だが、この北軽井沢の別荘地“星月夜のまほろば”の総合管理責任者だという須磨寺喜一が所有しているピアノはどれも状態が良く、定期調律でおおきな問題が発覚することもなかった。
 中肉中背の初老の紳士は数年前までここ軽井沢から新幹線通勤で都内にある音楽大学の非常勤講師の仕事もしていたのだときく。持病を持ちながらもバイタリティにあふれる彼が自慢なのだろう、添田が誇らしそうに教えてくれた。
 須磨寺の土地はもともと喜一の兄が管理していて、弟は芸大でピアノ三昧の日々を送っていたという。それが、兄の急死で事業を引き継ぐことになり、軽井沢の別荘管理をしつつ、都内でピアニストの卵たちにピアノ指導を行うようになったのだと。

 俺はふうん、と感心しながら二台目の調律をはじめる。応接間は全体的にモスグリーンのファブリックが使われている。木目調のアップライトピアノは、亡き妻の嫁入り道具だという。若くして亡くなった奥方のことを大切にしていた彼は、いまも恙無くピアノが弾けるよう、管理を徹底させていた。
 調律を終えて一曲奏でたのはシューベルトのピアノソナタ第十六番。昨年の春にはじめてこの家の調律を担当した際、俺がシューベルトをすきだと知った須磨寺が、全十一曲が収録されたピアノソナタ集のCDを料金に上乗せして譲ってくれたのだ。それ以来、ピアノソナタの虜になった俺は至るところでピアノソナタを弾いている。

 添田は俺が弾くピアノがすきだと言ってくれた。高校を辞めて以来、まともに師についた経験もないのに。主人のピアノの方が、何倍も素晴らしいものであるだろうに。
 二台目の調律を終え、一曲披露した俺は、恥ずかしい気分になりながら、椅子から降りる。
 そこへ、申し訳なさそうに添田の声。

「実は、もう一台お願いしたいピアノがあるのです。後日精算時に料金は追加しますので、お時間もう少しよろしいでしょうか」

 はじめて須磨寺の洋館に足を踏み入れたときは玄関とこの応接間にしかピアノはなかった。
 けれども添田は、もう一台、寝室にもアップライトのピアノが増えたのだと苦笑しながら俺に伝える。

「……はい。それは別に構いませんけど」

 病気で階下まで降りるのが大変になった主がもう一台新たに奮発して購入したのだろうと思った。だが、二階の寝室に立ち入った際、俺は信じられないものを見てしまった。


 ――ウェディングドレスを着た初恋の女性の写真が、サイドボードに飾られていたのである。


   * * *


 それは俺がまだ柊礼文だった頃。
 母子家庭で育てられた俺は、双子の弟の世話を見ながら学校に通っていた。母が買ってくれた玩具のピアノが俺の人生の最初の転機。その後、音楽の魅力に取り憑かれた俺は放課後の音楽室でほぼ独学でピアノを学び、母親を説き伏せて県立芸術高校へ入った。途中、吹奏楽や軽音楽もかじったが、俺には鍵盤楽器が一番性に合っていた。
 将来のことはあまり考えていなかった。バイトをしながらピアノやキーボードを弾く日々に満足していたから。
 いま思えば、あのときもっと将来についてしっかり考えていればよかったと後悔してしまう。
 ピアノにかかわる仕事をしたいと、漠然と思うだけでなく。

 結局お金が足りなくなって、俺は高校を中退した。十七歳の夏だった。
 そのときに、俺は恋をしていた。一緒に授業で課題曲を連弾した、同じクラスのどこかきどった女子に。

 周りからは場違いに思われていた彼女の名は鏑木音鳴。世界で活躍するピアニスト、鏑木壮太の娘である。それだけで一目置かれていた彼女だったが、俺はそんな彼女が奏でる腐った音に嫌気がさしていた。技巧は優れていても、感情が追いついていない。ちぐはぐな彼女の演奏に噛みつけば、返ってきたのは怒りではなく、消沈した言葉だった。その憂えた表情に、俺はときめいていた。意識していた彼女が、こんな顔をするなんて……

 彼女を元気づけたくて、ライブハウスに連れていけば、仁についに春が来たかと誤解されたが、気にしないで演奏を見せた。レイヴンクロウ、ワタリガラスの音楽。父親なんか気にするなと励まそうとして失敗した俺だったが、彼女は俺を意識してくれた。
 そして誤解がとけた俺たちはピアノ室でキスをした。はにかんだ表情で彼女は「はじめて」と呟いて俺の理性を無意識に試させた。もしこれが自分の部屋だったら押し倒していたかもしれない。
 シューベルトのグラン・デュオを弾きながらふたりで過ごした日々はいまも俺の心の片隅にずっと残っている。別れの際に「シューベルトの妻になる」と言ってくれた彼女のことも。俺が彼女のシューベルトになろうと、心の奥で決意したのも。

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