Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―

ささゆき細雪

chapter,1 シューベルトと春の再会《6》




 シューベルトの遺作をまとめた歌曲集「白鳥の歌」に収録されているセレナーデは、第四曲として収録されている。ニ短調の哀愁漂う曲調がうつくしく、もともとは恋人に対する想いを歌い上げたものである。
 紫葉が演奏する姿は、まるで目の前の恋人に愛を囁いているかのようだった。彼の情熱的な演奏を見ていると、自分が求められているのではないかと錯覚してしまう。
 夫が隣で一緒に演奏を聴いているというのに、何を思ってしまったのだろう……

「……以上で、よろしいでしょうか」

 紫葉が奏でた旋律に酔いしれていたわたしは、こくりと頷くことしかできなかった。
 帰り支度をはじめる紫葉を見て、すこしだけ名残惜しい気持ちになったが、その気持ちを顔に出すことはせず、深々と礼をするに留めるのみ。まじまじと顔を覗き込む勇気もなかった。
 初恋のひとによく似た調律師……このときはまだ、そう思っていたのだ。


   * * *


 四月下旬。軽井沢の本格的な春を告げる辛夷の花が、あちこちで見られるようになった。
 一緒に花を見に行こうと約束した夫だったが、その約束は叶わなかった。

「――旦那様?」

 ふだんならわたしよりも早く起きて、寝室のピアノを弾いている夫がまだ眠っている。珍しいこともあるのだなと、隣の寝台から起き上がったわたしが、夜着姿のまま、ピアノの椅子に座る。
 ピアニストをやめてから、毎日のピアノ練習の頻度もがくんと減った。一日八時間ぶっ通しで弾けていた当時の自分と比べたら、毎日ほんの数時間、誰に聴かせるわけでもなくたどたどしく指を動かしているだけの怠惰な様子はもはやプロとは呼べない。けれど、もう二度と弾けないと絶望したあのときを思うと、音を鳴らす楽しみを大自然のなかで味わうことができるようになったいまの自分は嫌いじゃない。
 そんなことを考えながら無意識に指を走らせる。ショパンの24のプレリュード前奏曲集のなかでも胃腸薬のコマーシャルで有名になったイ長調に、しっとりした気分になれる雨だれ、それから……

「奥様、旦那様は起きていらっしゃいますか」

 わたしがショパンの子犬のワルツを弾いていたときに、扉の向こうからノックの音とともに添田の声が聞こえた。慌ててピアノを弾く手を止め、扉を開く。気持ち良さそうに眠っている夫を起こさないように。

「まだ、おやすみですが、なにか?」

 夫が眠っているのを見て、添田は安心したのか、「失礼しました」とだけ言って去っていく。
 扉が閉まる音で、夫がうっすらと瞳をひらく。

「添田か……無粋な奴だ。せっかくねね子のピアノを堪能していたというのに」
「あら、起きていらっしゃったのですか?」
「今朝はショパンの気分なのだね。心が軽くなった気がするよ」

 そう言って、ふたたび瞳をとじる。

「ねね子。わしは、貴女が奏でる音がすきだぞ。この先もずっと、弾きつづけておくれ」
「なんだか、遺言みたいですね」
「そうだな……いまのわしは身体が鉛のように重い。昨日までピアノを弾けていた腕を持ち上げるのも辛い。添田に言ったら病院へ入院させられるに決まってる。だから寝たふりをしてやりすごしておったんじゃ」
「で、でも」
「どうせ死ぬなら、ねね子のピアノを聴きながら黄泉路へつきたい」
「そんな」
「死んだらねね子は自由だぞ? ピアノひとつだけ持って、もういちど夢に挑戦するか?」
「できませんよそんなこと」
「可能性はゼロではないよ。わしとしては、この土地とピアノを貴女に託したいと思っているが……ねね子が幸せになれる選択ができればそれでいい」

 ふだんより弱々しい声だが、饒舌な夫の語りを前に、わたしは彼の生命の灯火がいよいよ消えようとしているのだなと理解する。

「ただ、ひとつ。謝っておかなくてはいけない、と――……」

 うとうとしながら彼が告げた最期の言葉は、わたしの内耳に届く直前に、ピアノの音色に、かき消された。

 死の直前の夫がわたしに対して何を謝ろうとしていたのか。
 わたしがその真実を知るのは、まだすこし、先のはなし。

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