Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―
prologue シューベルトの妻《1》
音鳴。音を鳴らす、と書いてネメと読む。変な名前だと、自分でも思う。
どうしてこんな名前にしたのとわたしの爪を切っているママに尋ねたら。
だってあなたはピアニストになるんですもの。パパ以上に、有名な……ね。
小学生だったわたしに、容赦することなく、決めつけるように言い放ったっけ。
無意識のうちに、彼女の敷いたレールの上を緩行していた。毎日毎日ピアノ漬け。友達と遊ぶ暇なんか滅多になかった。爪が伸びたらすぐに切るし、手が荒れたらいけないからと家庭科の調理実習では皿洗いをすることができなかった。外出時は季節問わず手袋着用。いくらなんでもやりすぎじゃないかって思ったのは、中学に入ってから。
だけど、コンクールで賞を取る度に、後戻りできなくなる。この道しかないと周囲が騒ぎ立てる。
評価されることは喜ばしいことなのに、苦しかった。わたしの未来の可能性が、無視されているような気がして。
もしかしたらこれが、反抗期のはじまりだったのかもしれない。
つめやすりをかけられて、不揃いな長さの爪を強制的に整えるかのように生きていたわたしが最初に起こした小さなクーデター……それは。
* * *
音大附属高校の受験にわざと失敗してやった。
ママは、繊細なあなたのことだから、緊張しちゃったのね、なんて楽観的に言うけれど。本当のことを知ったらきっと卒倒してしまうだろう。少しだけ罪悪感。
それでも、わたしは宿命から逃れられないらしい。世界を飛び回っているベテランピアニスト鏑木壮太の娘という肩書きが、ピアノからの離別を許さない。結局、県立の芸術高校に入って、毎日毎日ピアノ漬けなのだ。
義務感で仕方なく弾かれているピアノにとってみれば、わたしみたいな怠惰な弾き手は遠慮したいことだろう。練習室のグランドピアノを好き勝手に弾きこなすことができても、気持ちが白けているからか、人を感動させる音楽を、奏でられていない気が、する。
弾いていても楽しくない。スタッカートの切れが悪いとか、アルペジオが汚いとか、些細な失敗が、余計にわたしを苛立たせる。
突然天から見放されたような気もしたし、もともとあった才能が出尽くしてしまったような気もしたし、自分がやる気を完全に失っているような気もしたけれど、それでも毎日弾いていた。それは、結局自分が弾かざるおえない環境にいたからかもしれないし、そうでないかもしれない。
確かに、弾いていない自分が想像できなかったのも事実。自分からピアノがなくなったら、何も残らないとママに幼い頃から刷り込まれていたのだ。息をするように、ピアノをするのが当たり前のことだったから。
躍動感のないシークエンス、ぷつりと途切れたテヌート、何一つ気に食わない自分の音色。他人からしてみれば、たいしたことないのだろう。神経質になっているんだよ、なんて先生には言われたけれどそうじゃないのは自分が一番わかってる。
これじゃあいけないと焦るほど、泥濘に嵌ってそこから逃げ出すことができなくなるジレンマ。赤い靴を履いて踊りつづける少女のように、わたしはピアノを弾きつづける。絶え間なく動きつづける指先は、わたしの脳内からの伝達命令や心の奥底の悲鳴を無視しているかのようだった。
これ以上弾いてなんかいられない、弾きたくない、それでも弾かずにいられない。何かの中毒みたいに、わたしは鍵盤に指を滑らせ、思い通りにならないメロディをムキになって奏でつづけていた。
――シューベルトのグラン・デュオを彼と弾くことになった、その日まで。
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