どうにもならない社長の秘密

白亜凛

第七章 決別チョコレート 4

「ほんとう――ですかぁ?」

「嘘でいいって言っただろう?」

「もぉ、課長ったらぁ」
 クスッ。

「なんだよ、今度は泣きながら笑うのか」
 クスッと笑い、間にしゃくりあげ、紫織はぐちゃぐちゃな顔を右手で拭った。

 室井がどこからか持ってきてくれたボックスティッシュに手を伸ばし、涙を拭いたり鼻をかんだりして、グラスの水をコクコクと飲んだ紫織は、疲れ切ったように俯いたままポツリと呟いた。

「課長、私、『SSg』辞めてもいいですか……」

 少し呆れたように頬杖をついて紫織を見守っていた室井は笑って、大きく伸びをした。
「いいよ。まったく、なにを深刻ぶってんだか」

「私、尻尾を丸めて逃げたいんです。どこまでも。意気地なしなんです」

「わかった。逃げろ。戦国武将だって逃げる時はとっとと逃げるんだ。家康なんて漏らしながら逃げたって言うじゃないか」

「あはは。やだー。もぉ」
「いいんだよ、辞めたって。お前が逃げてばっかりじゃないから言うんだぞ。ずっと頑張ってるお前だから言う。逃げて逃げまくれ」

 クスクスと紫織は泣きながら笑った。

「俺が許す。逃げろ、紫織。全力で」
「はい! 藤村紫織、思い切り逃げさせてもらいますっ」
「そうだ。その調子で逃げろ!」


 ***


 週明けの月曜日。定時で帰った紫織を見送り、室井は溜め息をついた。

 引き出しの中からそっと取り出したのは紫織から渡された『退職届』だ。

 辞めたい気持ちは変わらないが、それでも実際退職届を書いたことで、気が楽になったらしい。

 いつ辞めることにしたいかと聞くと、『規定通り二週間と言いたいところですが、とりあえず八月末でお願いします』と、紫織は答えた。

 これからひと月の間に、急いで職探しをするという。

『そっくりなんです。元彼と。そっくりなんですけど、中身は全然違うんです。彼は一途で優しい人だったから――。とっても優しい人で』

 女が友だちの話として切り出す恋愛話は、ほぼ間違いなく、本人の話だ。
 想像するに、鏡原社長は紫織の昔の恋人なのだろう。

 なにか理由があって別れたふたり……。
 いったい何があったのか。
 紫織は清楚な美人だ。控え目で不器用で臆病で、でもそんなところは男からみると何の欠点にもならず、かえって守ってあげたいという保護欲を高める魅力でしかない。
 だからモテるし『花マル商事』にいると、掃き溜めに鶴と言われたものだ。

 でも、紫織は頑なに男を受け付けなかった。
 いつだったか酔った時に『忘れられないんです』とポツリと言った。『私のせいで、酷い別れ方をして彼を傷つけてしまって』と。だから自分はもう恋なんてできないし、一生結婚もしなくていいんだと。

 その原因となった恋の相手が、鏡原社長だとしたら。

 左右に首を振りため息をついて、室井は紫織の退職届を引き出しにしまった。

 さて、そろそろ帰ろうかと思っていた時、ふと問題の鏡原宗一郎が現れた。

「室井さん、このあと軽くどうですか?」

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