どうにもならない社長の秘密
第五章 幸せを願うということ 12
そのあとの後部座席の会話は聞いていない。
ちょうど荻野社長が着物の着付けのこととか話しかけてきたこともあったし、心がシャットアウトして耳にも入ってこなかった。
――酷い!
「わざとよ、あれは私に向けていったんだわ! 本当ーーに、ムカつく!」
マンションに帰った紫織は、着物を脱ぎながら、美由紀に訴えた。
「過去なんてさっさと忘れろって言いたいのよ!あいつは!」
「でもさぁ紫織。さっきの人、副社長だっけ? 素敵な人じゃない?」
マンションに着き、荻野だけが車から降りて立ち話をしていた時、コンビニで買い物をして帰ってきた美由紀とばったり鉢合わせして、挨拶を交わしたのである。
物腰柔らかく『お世話になっております』と笑みを浮かべる荻野に美由紀が好感を持つのは当然だろう。車を降りてもこない宗一郎とは雲泥の差である。
ちなみに宗一郎と光琉を乗せたままの車は、その位置からは見えなかったが。
「え? ああそうね。荻野副社長は優しくて面白くてとーーってもいい人。詳しいことは知らないけど宗一郎と同じ業界にいた関係で知り合って意気投合したらしいわ。それで、ふたりで『SSg』を立ち上げたんだって」
「ふーん」
「『SSg』の社員はみんないい人だよ。宗一郎の秘書の恋人だって、見た目はすごく可愛いけど言うことは男らしくてね。さっぱりとした優しい子」
そう言いながら、酔っ払いから光琉を助けた宗一郎のあのシーンを思い出し、胸がチクッと疼いた。
――羨ましいくらい、光琉は素直でいい子。
守ってあげたくなるくらい。
はぁ……。
とにかく今日は疲れた。お風呂に入って、早く寝よう。
「じゃあね、今日は早く寝るわ」
「ウンウン、お疲れさま。ゆっくり休んで」
自分の部屋に行くと、ふと窓際に置いてあるガラスの瓶が目についた。
しずくの形の小さなテンポドロップ。
ガラス瓶の中を覗くと、細かい結晶が沢山見えた。
明日の空は、荒れるかもしれない。
いまは七月末の夏まっ盛り。梅雨は明けたはずなのに、ジトジトとしたすっきりしない日が続いている。
――明けない梅雨はないというが、本当だろうか。
電気を消して、紫織はテンポドロップの前にしゃがみこんだ。
目が暗闇に慣れてくると、ガラスの中に浮かぶ雪のような美しい結晶が、浮き上がってくる。
きらきら、きらきら、輝いている。
宗一郎が好きだからと自分もこのガラス瓶に興味を持って、いつしか彼とは関係なく、自分が好きな物になっていた。
別れて間もなくは見るたびに彼を想いながら泣いていたけれど、最近はそんなこともなくなっていた。
この七年。あっという間だと思っていたけれど、よく考えればそうじゃない。
その間に心は確実に変わっている。
テンポドロップを見ても彼を思い出さなくなったように、
七年という月日は、涙を想い出に変えるだけの長い長い時間だったのだ。
――かっこよかったなぁ、宗一郎。
『本日はお忙しい中……』
最後の最後に彼はひとことだけ挨拶をした。
スポットライトを浴びて挨拶をする彼は堂々としていて、紫織の周りにいた女の子たちがキャッキャと囁き合っていた。
『社長って、無口だけど本当に素敵だよね』
『でも、ライバルが光琉ちゃんじゃ、敵わないもんなぁ』
彼女たちが彼をうっとりと見つめるのも当然のことだと思う。
――宗一郎。もう眼鏡はかけないの?
視力が弱いわけじゃなかった彼のメガネは伊達メガネだった。多分、鎧のような物だったのだろうと思う。
キスをする時だけ、彼はメガネを外した。
睫毛が長くて、どこか憂いを帯びたような宗一郎の甘い瞳は、紫織だけのものだった。
『紫織、好きだよ』
――宗一郎。
宗一郎……。
神さまお願い。
どうか、乗り越えさせてください。
彼が言ったように。
彼の幸せを心から思える自分になりたい。
どうか、静かな気持ちで、彼の幸せを願える自分になれますように。
お願いです。
紫織はそう願いながら、潤んでいた瞳で、いつまでもキラキラと輝く結晶を見つめていた。
ちょうど荻野社長が着物の着付けのこととか話しかけてきたこともあったし、心がシャットアウトして耳にも入ってこなかった。
――酷い!
「わざとよ、あれは私に向けていったんだわ! 本当ーーに、ムカつく!」
マンションに帰った紫織は、着物を脱ぎながら、美由紀に訴えた。
「過去なんてさっさと忘れろって言いたいのよ!あいつは!」
「でもさぁ紫織。さっきの人、副社長だっけ? 素敵な人じゃない?」
マンションに着き、荻野だけが車から降りて立ち話をしていた時、コンビニで買い物をして帰ってきた美由紀とばったり鉢合わせして、挨拶を交わしたのである。
物腰柔らかく『お世話になっております』と笑みを浮かべる荻野に美由紀が好感を持つのは当然だろう。車を降りてもこない宗一郎とは雲泥の差である。
ちなみに宗一郎と光琉を乗せたままの車は、その位置からは見えなかったが。
「え? ああそうね。荻野副社長は優しくて面白くてとーーってもいい人。詳しいことは知らないけど宗一郎と同じ業界にいた関係で知り合って意気投合したらしいわ。それで、ふたりで『SSg』を立ち上げたんだって」
「ふーん」
「『SSg』の社員はみんないい人だよ。宗一郎の秘書の恋人だって、見た目はすごく可愛いけど言うことは男らしくてね。さっぱりとした優しい子」
そう言いながら、酔っ払いから光琉を助けた宗一郎のあのシーンを思い出し、胸がチクッと疼いた。
――羨ましいくらい、光琉は素直でいい子。
守ってあげたくなるくらい。
はぁ……。
とにかく今日は疲れた。お風呂に入って、早く寝よう。
「じゃあね、今日は早く寝るわ」
「ウンウン、お疲れさま。ゆっくり休んで」
自分の部屋に行くと、ふと窓際に置いてあるガラスの瓶が目についた。
しずくの形の小さなテンポドロップ。
ガラス瓶の中を覗くと、細かい結晶が沢山見えた。
明日の空は、荒れるかもしれない。
いまは七月末の夏まっ盛り。梅雨は明けたはずなのに、ジトジトとしたすっきりしない日が続いている。
――明けない梅雨はないというが、本当だろうか。
電気を消して、紫織はテンポドロップの前にしゃがみこんだ。
目が暗闇に慣れてくると、ガラスの中に浮かぶ雪のような美しい結晶が、浮き上がってくる。
きらきら、きらきら、輝いている。
宗一郎が好きだからと自分もこのガラス瓶に興味を持って、いつしか彼とは関係なく、自分が好きな物になっていた。
別れて間もなくは見るたびに彼を想いながら泣いていたけれど、最近はそんなこともなくなっていた。
この七年。あっという間だと思っていたけれど、よく考えればそうじゃない。
その間に心は確実に変わっている。
テンポドロップを見ても彼を思い出さなくなったように、
七年という月日は、涙を想い出に変えるだけの長い長い時間だったのだ。
――かっこよかったなぁ、宗一郎。
『本日はお忙しい中……』
最後の最後に彼はひとことだけ挨拶をした。
スポットライトを浴びて挨拶をする彼は堂々としていて、紫織の周りにいた女の子たちがキャッキャと囁き合っていた。
『社長って、無口だけど本当に素敵だよね』
『でも、ライバルが光琉ちゃんじゃ、敵わないもんなぁ』
彼女たちが彼をうっとりと見つめるのも当然のことだと思う。
――宗一郎。もう眼鏡はかけないの?
視力が弱いわけじゃなかった彼のメガネは伊達メガネだった。多分、鎧のような物だったのだろうと思う。
キスをする時だけ、彼はメガネを外した。
睫毛が長くて、どこか憂いを帯びたような宗一郎の甘い瞳は、紫織だけのものだった。
『紫織、好きだよ』
――宗一郎。
宗一郎……。
神さまお願い。
どうか、乗り越えさせてください。
彼が言ったように。
彼の幸せを心から思える自分になりたい。
どうか、静かな気持ちで、彼の幸せを願える自分になれますように。
お願いです。
紫織はそう願いながら、潤んでいた瞳で、いつまでもキラキラと輝く結晶を見つめていた。
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