どうにもならない社長の秘密

白亜凛

第三章 そんな偶然ならいらない 10

 雲のように、雨のように、いつの間にか消えることができたなら。
 そう思っても、頑丈にできている人間の体はなにも変わらなくて、帰巣本能というものが、体を家まで運んでしまう。

 あの日も。
 今日も、消えることはできない。

 マンションに着いた紫織は、ドアノブにかけた自分の濡れた手を、ぼんやりと見つめた。

 床を見下ろすと、ポタリポタリと落ちる雨垂れのシミが広がっていって。それはまるで体中から流れる、涙のようだと思った。

 それでも美由紀には心配かけたくない。
 彼女が帰ってくる前に涙を乾かしておかなければ。

 バスルームに飛び込んだ紫織は嗚咽を漏らしながらシャワーを浴び、流れるだけの涙を流した。

 しゃくりあげるほど泣くだけ泣くと、気持ちは少しだけ落ち着いてきて、コップの水を飲んだ時には、今日の出来事が少し冷静に見えてきた。

 ――宗一郎の気持ち。
 貧乏が理由で別れを切り出された彼は、あの時心から傷ついただろう。

 それでも言うしかなかった。
 紫織の母はもっと酷いことを彼に言おうとしていたのだ。

『彼のお母さんはシングルマザーで、父親がいない彼を産んだのよね? しかも若い頃は水商売の方だっていうじゃないの。そんな人、とても受け入れることなんてできないに決まっているでしょう? 紫織が言えないなら、その彼にお母さんが直接言ってあげるわ。手切れ金がほしいなら渡してあげるし』

『やめてお母さん! 私が言うからお願い。そんな酷いこと、宗一郎には絶対に言わないで!』

 あの時、既に、店の経営状況は火の車だった。
 銀行に見捨てられ、お金があった時には群がってきたはずの身内にも見捨てられ、百年の歴史を持つ呉服店『藤乃屋』を潰さずに済むにはもうそれしかない。

 母は、紫織が資産家と結婚することを望んだのである。

 お嬢さま育ちの紫織に、それ以外の生きる術はないとさえ言った。
『温室の花が、風雨に晒されて、生きられると思うの?』

 泣いてすがる母を振りほどき、彼の元に走るようなことは、紫織にはできなかった。家族が不幸になるのを見捨てて、自分だけが幸せになれるはずもない。

 自分さえ我慢すれば、『藤乃屋』は助かる。
 そう思って捨てたのだ。
 希望も夢も幸せな未来も、全て。

 たったひとつでもいい。宗一郎の心の中で、楽しかった想い出と一緒に生きてさえいればそれでいいと、自分に言い聞かせた。

『――ごめんなさい、宗一郎。ごめんなさい』

 そんな紫織の気持ちを、彼はなにも知らない。
 彼は紫織が言った言葉をそのまま受け取って、紫織の前から消えた。

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