どうにもならない社長の秘密

白亜凛

第二章 ばいばい花マル、よくできました 1

 ――暑っ。

 ムッとする熱気に眉をひそめた紫織しおりは、じとじととした薄暗い廊下を足早に進んだ。

 突きあたりには給湯室がある。

 ドアノブを回すと、すえた臭いが鼻を突いた。
 くすんだ流し台。まだらにシミがある壁。そして、剥がれた床。

 なにもかもが汚く淀んで見えるのは、梅雨空のせいだけではないだろう。
 そもそもが古いビルなので、小まめに掃除をしても元の壁が何色だったのかもわからないし、どんなに磨いたところで、もう二度と輝くことはできないのだ。

 グラスふたつ並べて氷を入れ、冷蔵庫から取り出したボトルコーヒーを注ぐ。

 ひとつはコーヒーだけ。
 もうひとつのコップにはコーヒーを少なめにして牛乳とガムシロップを入れる。

 紫織はアイスでもホッとでもブラックコーヒーが苦手だ。
 多分この好みは一生変わらないだろう。

 廊下を戻りながら、ふと夕べ見た夢を思い出した。

『私、お金のない人とは結婚できないの。わかるでしょ? 百年続く呉服屋の一人娘なのよ、私は』

 ――我ながら酷い言い草だったわね。

 懐かしさと共に、紫織はフッと口元を歪める。

 あれはいったい今から何年前になるのだろう。
 随分昔のことなのに今更そんな夢を見てしまうのは、紫織の心の中を支配しているのが、不安という感情だからだろうと思った。

 藤村紫織ふじむら しおり。独身、御年二十九歳。

 この朽ち果てた昭和の残骸のビルのように、今にも崩れ落ちそうな『有限会社花マル商事』に勤めて四年になる。



「お疲れさまでした、課長」

「サンキュー」

 コーヒーを受け取ったのは紫織の上司、室井むろい課長。

 白髪がちらほら見え始めた御年四十歳。結婚歴はあるがいまは独身だ。

 事務室にいるのはふたりだけだった。

 ネズミ色のデスクが並んでいるが、どれも空席になって久しい。

 ラジオから響いているのは懐メロで、割れた音がこの無駄に広いだけの空間にやけに馴染んでいる。

 背もたれをきしませながら室井課長は大きく息を吐き、指を首に掛けてネクタイを緩めた。

 アイスコーヒーの入ったグラスに室井が手を伸ばすと、揺れた氷がカランカランと涼し気な音を立てる。

 ぼんやりとその様子を見ていた紫織はポツリと聞いた。

「社長どうでした?」

 室井が出かけていた先は、ここ『有限会社花マル商事』の森田もりた社長が入院している病院だった。

 社長が入院してかれこれ一週間になる。

「ん? うん」

 歯切れが悪い室井の返事に、おのずと紫織の眉も曇る。

「具合、良くないんですか?」

「いや? 体調はいいみたいだな。順調に回復しているし」

 それならどうしてそんな風に浮かない顔をしているのか。

 怪訝そうに首を傾げる紫織に、グラスを置いた室井はフッと目元で笑いかけた。

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