【書籍化】勤め先は社内恋愛がご法度ですが、再会した彼(上司)とまったり古民家ぐらしを始めます。

梅川いろは

エピローグ きみのしらない僕(25)の話

 ヤマノ化成の秋まつりは今年も盛況で、たくさんの家族連れやお年寄りで賑わっていた。

 子ども向けのイベントコーナーには、ずんぐりむっくりした人型の着ぐるみがいて、子どもたちとの写真撮影やハイタッチに応じている。

 ゆるキャラブームが世に起こるよりもずっと以前に活躍していたという、かつてのヤマノ化成のイメージキャラクター『ヤマノぼうや』の着ぐるみを着用した彼女は、数人の子どもたちに囲まれていた。

 その様子をしばらく眺めていると、ヤマノぼうやが頭部をゆっくりと左右に振って、何かを探しているような動作をした後に、こちらに顔を向けた。

 着ぐるみの顔にある虚ろな瞳ごしに、彼女と目が合ったのがわかる。

 創太郎が軽く手を振ると、ヤマノぼうやも手を振り返して、子どもたちをまとわりつかせながらゆっくりとこちらに近づいてきた。

 すぐそこまで来たところで、髪を短く刈り込んだ、いかにも活発そうな5、6歳の男児がどこからか走ってきて、ヤマノぼうやの背後に回りこむのが見えた。

 一瞬呆気にに取られたが、何をしようとしているのか予測がついて、創太郎はその場を駆けだした。

 男児が背後からヤマノぼうやの「胸にあたる部分」をわし掴みにしたのは、非常に残念だが止められなかった。ヤマノぼうやが焦ったような動きを見せる。

 それでも男児が大きな口を開けて、「このひと、おっ、」まで言葉を発しかけたのを、人差し指を当てて阻止することが出来た。小さな体をヤマノぼうやから優しく引きはがす。

「おっ、」の後に続くのはおそらく「ぱいがあるーー!!!」だったはずだ。

「ヤマノぼうやに、痛いことしないでね?」

 小さく沸いた怒りを押し殺し、柔らかい口調で諭すと、男児はぽかんとした顔になった後、「ママぁー!!」と叫びながら走り去っていった。

 ヤマノぼうやは視界の悪い中でも状況を察したらしく、こちらに向けてわずかに会釈するような仕草を見せる。最初よりも動きが緩慢になってきている気がして、創太郎はついてくる子供たちをあしらいながらヤマノぼうやの背を押し、控室代わりのテントに誘導した。

「やっぱり着ぐるみって、暑いですね」

 着ぐるみの頭部を脱いだ彼女が楽しげに言い、ため息をつく。創太郎はアイスティーのボトルのキャップを開け、彼女に手渡した。

「ありがとうございます」

 はにかんだ笑顔で言い、ペットボトルに口をつける彼女の上気した頬を見つめると、心の奥が潤んで満たされるような心地がした。

 こんなに穏やかな気持ちで10月の秋まつりを迎えられるとは、8月の打ち合わせの時点では思いもしなかった。

 自分が彼女との関係を守るために、時には睡眠時間を削って用意しておいた保険―――会社が過去にコンプライアンスに違反していた数々の明確な記録や、主要な取引先の一つが官公庁の、それも内閣府とつながる組織と談合していて、この会社の役員もそれに関与していたことわかる音声データなどの証拠は、自宅のハードディスクとSDカードに眠ったままだ。

 この先も使わずに済むことを願っている。

 匿名を装って寺本梨央の行為を告発したのは創太郎だった。彼女のやっていることには気づいていて、しばらく静観はしていたが、あずみに対する敵意が感じられたのと、あずみ本人も気にしているようだったので排除することにしたのだ。

 あずみがこの会社に転職を決めて、それを自分がいち早く知ったのはまったくの偶然で、奇跡だった。
  
  人事総務部に用事があって直接訪ねた際に、キャリア採用の結果についての話題が出ていて、彼女の名前が挙げられたのを聞いた時には、まさかという思いしかなくて。

 和玖の家が所有する土地や建物の賃貸借を担当している不動産会社に、あずみが部屋探しの予約をして、おしゃべりな営業マンが創太郎に「ヤマノ化成への転職でね、こっちに住みたいっていう若い子がいるんですよ。そういうのって最近流行ってるんだろうかね?」と漏らしたのものも、偶然や奇跡といえるたぐいの出来事だ。

 だから、自分は賭けに出た。

 まずは、副業でコンサルティングをしていた会社の一つに、海外からの人材の受け入れを提案し、研修生の住居の確保を早急にしておくように促した。

 件の不動産会社の営業マンに、彼女とおぼしき人物が本当に彼女なのかをそれとなく確かめ、具体的にいつ部屋探しに来るのかを 聞き出すこともした。

 彼女が部屋探しに来た日に、散歩好きで、バスで移動するような距離でも余裕で歩いてしまう祖母が買い物に行くよう仕向けた。

 その後には営業マンに電話をかけ、「雨が降りそうだから、もし祖母を見かけたら乗せてあげて欲しい」と頼んだ。

 以前から祖母は「こんなところに住んで、お嫁さんは来てくれるのかしら。彼女もいないみたいだし」などと漏らしていたのだ。そんな祖母が考えること、思いつくことは予想ができた。

 きっと、彼女を気に入るだろうということも。

 自分のチームに彼女が配属されるよう、根回しを重ねることもした。

 彼女の身も心も手に入れたあの夏の夜は、これまでの人生で間違いなく一番幸せと言える出来事だったが、反面、また失うことへの恐怖が増した。自分はこれからも、その恐怖と付き合って生きていかなければならないだろう。

 だけど、それでも。

 創太郎はあずみの頬にかかっていた髪を耳の後ろになでつけて、柔らかい頬に触れた。恥じらうような表情を見せたのを、愛おしい気持ちで見つめる。

「外に出てる。ゆっくり休んで」

 テントから出て空を見上げた。高く澄んだ秋の空には雲一つなく、黄色い日差しが降り注いでいる。

   10年前、彼女と付き合うことになって初めて一緒に帰った時の空を思い出すような色合いだった。
 
 自分のスタンスは、きっとこれからも変わらない。

 壊されないように守る。壊そうと近づいてくるものを壊す。

 ただ、それだけのこと。



〈完〉

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