【書籍化】勤め先は社内恋愛がご法度ですが、再会した彼(上司)とまったり古民家ぐらしを始めます。
奇跡と奇跡の起こる家 2
「ワクさんの奥さん!家に帰るの?乗っていく?」
ワク、という名字の響きに胸の奥がちくりと痛んだ。時間が経っても消えない、あずみの古傷のようなもの。浮かびかけた感情がはっきりとした輪郭を帯びないうちに、意識を他に向ける。
ワクさんの奥さん、と呼びかけられたおばあさんは70代くらいの上品そうな身なりの人で、買い物帰りなのか重たそうなエコバッグを片手に下げていた。
突然車から声をかけられたことに驚いたようだけれど、「あら、高橋さん」と意外にも若々しい声が聞こえる。
ああなるほど、とあずみは思った。この時間帯、このあたりを走るバスは2時間に1本あるかないかだったはずだ。うっかりそれに乗り遅れた場合、数キロの道のりでも歩いたほうが早いこともある。駅から離れてしまえばバスや車が必須の交通手段になるこのあたりでは、知り合いのお年寄りを車に乗せてあげることは別段珍しいことでもないのだろう。
「あらそんな、お仕事中でしょう」
高橋氏に車に乗るかを聞かれたおばあさんはそれを断り、後部座席のあずみに目を留めてやんわりと目礼した。
「少し歩いたほうが運動になるし良いのよ、気にしないで」
そうは言っても、片手のエコバッグはかなり重たそうだ。
元気そうな人だけど、なんだか放っておけない。空に厚くかかった雲はにぶい灰色をしていて、今にも雨が降りそうだった。
気がつけば、あずみはドアを開けて外に出ていた。
「あのっ、一緒に乗っていきましょう!」
食い気味に言い放ったあずみを、おばあさんが目を丸くして見上げている。
濃い湿気をはらんだ生ぬるい風がふいて、土のにおいを運んできた。
車が走り出してすぐに、細かい雨が降ってきた。
あずみの部屋探しが難航していることを聞くと、おばあさんは「まぁ」と言って驚き、気の毒そうな顔をした。
「大変だったわねぇ。部屋が決まらないと落ち着いて引っ越しの準備も出来ないでしょう」
「そうなんです。仕事の関係で、内見は今日しか出来なくて。なので、出来れば今日中に決めたかったんですけど…」
明日からは退職前の引継ぎでバタバタするし、どうにか今日のうちに部屋を決めて安心したかったのだけれど。
住むところがないまま、転職先の初出社を迎えてしまったらどうしよう。
あれこれ考えると、気持ちが暗くなってくる。
おばあさんはため息をつくあずみをじっと見つめて、びっくりすることを言い放った。
「あなた、うちに住んだらどうかしら」
「えっ!」
おばあさんの唐突な提案に、あずみは驚いて固まってしまった。運転していた高橋氏が自分の利益がなくなってしまうかもしれないというのに、「それは良いね!」と同調する。
「古い平屋だけれど、それなりに手入れして綺麗にしているつもりよ。とにかく部屋は余っているし」
「え、え、そんな。良いんですか?」
初めて会ってから一時間も経っていない、得体の知れない女を自分の家に住まわせようだなんて、なんと度胸のある人なのだろう。
でも、あずみとしては願ってもないような話だった。
さっそくおばあさんの家に向かい、おうちを見せてもらうことになった。
車を降りると、雨上がりの草木の濃いにおいがする。肺の中から浄化されるような、気持ちの良い空気だった。
青々とした山を背に、その家は建っていた。
「わ、すごい…!」
築約65年だという平屋建ての家は、純和風のたたずまいで、まるで古く格式高い日本旅館のような風情がある。
玄関の表札を見ると『和玖』になっていて、どきりとした。和玖という名字の家が日本に何世帯あるのかはわからなかったけれど、なかなかの偶然なのではないだろうか。
10年も前の中学生だった時に付き合っていた男の子のことを、こんな風に引きずるなんて自分でも思いもしなかった。
もう顔もうっすらとしか思い出せないのに。
(…内見に集中しよう。せっかく見せてくれるんだから、上の空は絶対にだめだ)
通された応接間は換気が効いていて空気が清々しく、畳の香りがした。
「亡くなった主人が家のことにはお金を惜しまない人でね。遺言書に家の改修についての構想を書き残すような人だったの」
ワク、という名字の響きに胸の奥がちくりと痛んだ。時間が経っても消えない、あずみの古傷のようなもの。浮かびかけた感情がはっきりとした輪郭を帯びないうちに、意識を他に向ける。
ワクさんの奥さん、と呼びかけられたおばあさんは70代くらいの上品そうな身なりの人で、買い物帰りなのか重たそうなエコバッグを片手に下げていた。
突然車から声をかけられたことに驚いたようだけれど、「あら、高橋さん」と意外にも若々しい声が聞こえる。
ああなるほど、とあずみは思った。この時間帯、このあたりを走るバスは2時間に1本あるかないかだったはずだ。うっかりそれに乗り遅れた場合、数キロの道のりでも歩いたほうが早いこともある。駅から離れてしまえばバスや車が必須の交通手段になるこのあたりでは、知り合いのお年寄りを車に乗せてあげることは別段珍しいことでもないのだろう。
「あらそんな、お仕事中でしょう」
高橋氏に車に乗るかを聞かれたおばあさんはそれを断り、後部座席のあずみに目を留めてやんわりと目礼した。
「少し歩いたほうが運動になるし良いのよ、気にしないで」
そうは言っても、片手のエコバッグはかなり重たそうだ。
元気そうな人だけど、なんだか放っておけない。空に厚くかかった雲はにぶい灰色をしていて、今にも雨が降りそうだった。
気がつけば、あずみはドアを開けて外に出ていた。
「あのっ、一緒に乗っていきましょう!」
食い気味に言い放ったあずみを、おばあさんが目を丸くして見上げている。
濃い湿気をはらんだ生ぬるい風がふいて、土のにおいを運んできた。
車が走り出してすぐに、細かい雨が降ってきた。
あずみの部屋探しが難航していることを聞くと、おばあさんは「まぁ」と言って驚き、気の毒そうな顔をした。
「大変だったわねぇ。部屋が決まらないと落ち着いて引っ越しの準備も出来ないでしょう」
「そうなんです。仕事の関係で、内見は今日しか出来なくて。なので、出来れば今日中に決めたかったんですけど…」
明日からは退職前の引継ぎでバタバタするし、どうにか今日のうちに部屋を決めて安心したかったのだけれど。
住むところがないまま、転職先の初出社を迎えてしまったらどうしよう。
あれこれ考えると、気持ちが暗くなってくる。
おばあさんはため息をつくあずみをじっと見つめて、びっくりすることを言い放った。
「あなた、うちに住んだらどうかしら」
「えっ!」
おばあさんの唐突な提案に、あずみは驚いて固まってしまった。運転していた高橋氏が自分の利益がなくなってしまうかもしれないというのに、「それは良いね!」と同調する。
「古い平屋だけれど、それなりに手入れして綺麗にしているつもりよ。とにかく部屋は余っているし」
「え、え、そんな。良いんですか?」
初めて会ってから一時間も経っていない、得体の知れない女を自分の家に住まわせようだなんて、なんと度胸のある人なのだろう。
でも、あずみとしては願ってもないような話だった。
さっそくおばあさんの家に向かい、おうちを見せてもらうことになった。
車を降りると、雨上がりの草木の濃いにおいがする。肺の中から浄化されるような、気持ちの良い空気だった。
青々とした山を背に、その家は建っていた。
「わ、すごい…!」
築約65年だという平屋建ての家は、純和風のたたずまいで、まるで古く格式高い日本旅館のような風情がある。
玄関の表札を見ると『和玖』になっていて、どきりとした。和玖という名字の家が日本に何世帯あるのかはわからなかったけれど、なかなかの偶然なのではないだろうか。
10年も前の中学生だった時に付き合っていた男の子のことを、こんな風に引きずるなんて自分でも思いもしなかった。
もう顔もうっすらとしか思い出せないのに。
(…内見に集中しよう。せっかく見せてくれるんだから、上の空は絶対にだめだ)
通された応接間は換気が効いていて空気が清々しく、畳の香りがした。
「亡くなった主人が家のことにはお金を惜しまない人でね。遺言書に家の改修についての構想を書き残すような人だったの」
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