【書籍化】勤め先は社内恋愛がご法度ですが、再会した彼(上司)とまったり古民家ぐらしを始めます。

梅川いろは

2章 きみのしらない僕の話 1 

 マンションのエントランスまであずみを送った後、自室に戻った創太郎は、ベッドに寝ころんで天井をぼうっと見つめた。

 暑い。
 
 少し体を冷やしたいと思った。ベッドの脇の壁に据え付けられたリモコンを操作して、一気に16℃の設定にする。

 ほどなく低い音が響いて、冷風がすみずみまで部屋を満たした。
 
 目を閉じると、ついさっきの彼女とのことが思い出される。

 少し困った顔。潤んだ瞳。長いまつ毛。唇の色。

 白い足首の、なまなましい赤い傷。

 ワンピースのすそから覗く、太もものなめらかな肌。体を近づけた時の、髪の毛のにおい。

 ひとつひとつが目に焼き付いている。反芻はんすうすると、すぐに体が反応した。

 いずれそうなった時、どんな声で、どんな顔をして、彼女は。

 創太郎は目を閉じ、これまでこんな時にいつもそうしてきたように、想像の中で彼女の素肌に触れた。

 力加減を調節しながら動かしているうちに、あらがえない瞬間が訪れて熱くたかぶったものが解放される。

 用意してあったティッシュでふきとって、ゴミ箱に放り込んだ。
 
 ため息をつく。冷静になると自分の汗の感触が気持ち悪かった。

 シャワーで流したいと思い、Tシャツと下着、クロップド丈のスウェットパンツを用意して浴室に向かう。

 汗を流して部屋に戻ると、玄関を解錠する音が響いてドアが開き、人の入ってくる音が聞こえた。
 
 反射的に、体がぎゅっと強張る。

 思っていたよりもかなり早く帰ってきた。

 あずみが帰るのがもう少し遅かったら、出くわしてしまっていたかもしれない。そう考えると冷や汗が出る。

 ノックなしで部屋のドアがいきなり開いた。

「創太郎~?出かけてたの?」

 化粧の濃い女の顔が覗いた。母が帰ってきた。

「寒い!ちょっと、温度下げすぎじゃない?」

「あ、おかえり。なんか、暑くてさ…」

 わざとだるそうな声を出して答える。

「シャワー浴びたの?」

 可能な限り平静を装ったが、創太郎の濡れ髪を見て母は何かを感じ取ったのか、創太郎をじっと見つめた。

 どちらかといえば野暮ったい印象を受ける濃いアイメイクの奥から、探るような視線がひゅっと部屋の中を一周する。

 気づくな、気づくな…

「あんまり冷房きつくすると、体壊すよ」

 母はあっさり言うとドアを閉めた。母の姿が見えなくなっただけで、どっと力が抜ける。

 何かに気づいた気配はなかったように思う。グラスは洗って水をふき取り、食器棚に戻した。床に髪の毛が落ちていないかも、掃除機をかけてチェックした。

 そうした「痕跡こんせきを消す作業」をシャワーの前にやっておくべきかどうか迷って、先に済ませたのは正解だった。危なかった。

 本人に自覚は全くないようだが、創太郎の母はいわゆる過干渉といわれるタイプの人間だった。

 創太郎の行動をすべて把握していなければ気が済まない。創太郎が少しでも気に入らない行動を取ると、金切り声で人格を否定してくる。

 母は専業主婦だが春先から毎週土曜日にカルチャースクールへ通っていて、終わった後は同じスクールの人たちとお茶をするなどして、いつも夕方ごろに帰ってくる。だから、あずみを家に入れても大丈夫だと思っていたのに。

 しかし、今日かなり早く帰ってきたところを見ると、母はまたやらかしたのかもしれない。

 母はコミュニティの中で、誰かと友人関係を保つことが出来ない人だった。

 最初は友達が出来ると家に呼んだり呼ばれたりしょっちゅう電話で話すなどして、蜜月みつげつと言っていい親しい関係が続くが、これが長続きしない。

 すごく良いお友達が出来たの!と喜んでいたかと思えば、数か月もしないうちに顔を歪めて相手の悪口を言うようになる。

 そんな人間にあずみを会わせたくはなかった。

 創太郎は12歳の時、同じ塾の女の子に手紙をもらったことがある。渡してきた時の状況やその子の表情から、おそらくラブレターみたいなものだと推測したが、創太郎がその手紙を読むことはなかった。

 創太郎の塾用バッグから手紙を発見した母が、勝手に読んだ後に破いて燃やしてしまったからだ。

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