【書籍化】勤め先は社内恋愛がご法度ですが、再会した彼(上司)とまったり古民家ぐらしを始めます。
花とみつばち 5
6月になり、中旬を過ぎると雨の日が続いた。
その年の梅雨は例年に比べて雨の日が多く、今日は久しぶりの晴れ間だった。
街中の大きい書店であずみと和玖君は四月から数えて三度目の選書を終えると、会計して紙袋を二重にしてもらい、書店を後にした。
荷物は当たり前のように和玖君が持ってくれる。一年前は女の子みたいな感じだったのに、たくさん本が入って重たいのを軽々と持ち運びしていて、男子ってすごいな、とあずみは思う。
それにしても、足首が痛い。
今日は新しいサンダルを履いてきたのだけれど、それがよくなかった。華奢なストラップが足首の骨の出ている部分にぐいぐい食い込んで、赤くなっている。
本を買った後はいつも、軽く食事をしてから帰っている。
安くていろいろ美味しく食べられるイタリアンのファミリーレストランか、軽食や飲み物が美味しいコーヒーショップで迷って、イタリアンにしようということになった。
和玖君はドリアとパスタにハンバーグを注文していた。痩せているのによく食べるなと感心してしまう。
意外なのは、甘党だと思っていた彼がこういう場ではスイーツのたぐいを食べないということだった。
これまでカウンター業務でお昼を一緒に食べた時には、彼はだいたい菓子パンを持ってきていたので、けっこうな甘党だと思っていたのだけれど。
かかとが痛いことを除けば楽しい時間はあっという間に過ぎて、ホームで帰りの電車を待っていた時、和玖君が小さな声で言った。
「気がつかなくてごめん。足、ずっと痛かったよね」
「あ…うん、ちょっと靴擦れしちゃって。でも大丈夫だよ、後は帰るだけだし」
「うちに寄って絆創膏貼って行ったら。これ、このまま帰ったらもっと傷が深くなると思う。ストラップ踏みながら歩くのも嫌だろうし」
「え、いいの?ご迷惑じゃない?」
(でも、おうちの人に会うの恥ずかしいというか、緊張する…!)
和玖君の家にはお邪魔したことがないけれど、お父さんは単身赴任で遠方にいて、駅に直結した分譲マンションにお母さんと住んでいるというのは聞いていた。
あずみの家は駅からそこそこ歩かなければいけない場所にあるので、応急処置させてもらえるのならとてもありがたい。
「今日は誰もいないから、気にしなくても良いよ」
そう聞いて、あずみは心の中で胸を撫でおろした。
「そうなんだ…じゃあ、お邪魔させてもらいたい、です」
駅から出てすぐの立派なマンションに、あずみは緊張しながら足を踏み入れた。なんだか、とっても綺麗で高級感があるマンションなので、少々気後れしてしまう。
10階でエレベーターを降りて、すぐの角部屋が和玖君の家だった。
「お邪魔します…」
砂粒の落ちていない綺麗な三和土に、サンダルを脱いでそろえる。
サンダルでお出かけする時には靴下をバッグに忍ばせて歩くように母親から言われていたのが役に立ち、半日外を歩き回った素足でスリッパを借りずに済んだ。
彼について廊下を進む。玄関から進んで、左手の個室が和玖君の自室のようだった。
「お茶とか持ってくるから、適当に本読んで待ってて」
「あ、おかまいなく…」
ぎこちなく言うあずみに、薄く口の端を上げるようにして笑うと、和玖君は部屋を出ていった。
初めて入った和玖君の部屋は、壁の一面が本棚になっていた。雑誌や大型の本が面出しでディスプレイ出来るおしゃれなタイプのもので、自然科学に興味のある和玖君らしく海外のネイチャー系雑誌の日本語版が置かれている。
綺麗に整えられたベッドの脇に腰を降ろし、せっかくなので普段はあまり読まない海外の雑誌をパラパラめくる。載っていた特集はどれも興味をそそるもので、つい夢中になって読んでしまった。
両手に緑茶のグラスを持って戻ってきた和玖君は、机に自分のぶんのグラスを置き、もう一つをあずみに差し出した。
「あと、これ」
渡されたのは大きめの絆創膏だった。
「ありがとう、すごく助かる」
(あ。どうしよう)
受け取ったのはいいものの、あずみは困ってしまった。自分でかかとに絆創膏を貼るには、どうしてもちょっと恥ずかしい体勢にならないといけない。
「俺、やろうか?」
あずみの様子に気がついたのかはわからないけれど、和玖君が申し出てくれる。
「あ、じゃあ、お願いしてもいいかな…」
和玖君はあずみから絆創膏を受け取って包装を剥くと、「ベッドに座って、足首こっちに向けて」と言った。
(丈の長いフレアスカートとかで来れば良かった…)
あずみが着ていたのは短めのワンピースで、間近で太ももを見られたらと思うととても恥ずかしい。
でも今さらそんなこと、和玖君はきっと気にならないだろうとも思う。
お付き合いしてキスをするような間柄なのだから、とあずみは気軽に考えることにした。
和玖君がすぐ横に来て、かかとにていねいに絆創膏を貼ってくれる。皮がむけていたのは左足だったけれど、右のかかとも赤くなってしまっていたので、そちらにも保護のために貼ってもらった。
「これで、家までは大丈夫だと思うんだけど」
「ありがとう」
貼り終えて顔を上げた彼にお礼を言う。
和玖君は何も言わず立ち上がってあずみのすぐ横に座ると、腰の後ろに手を置いて顔をぐっと近づけてきた。
(あ、キス…)
胸が震えた。目を閉じるのと同時に唇が重なる。
そのキスは、いつもとは違った。
軽く啄ばむように口づけられた後、一瞬の間を置いて何度も強く唇が合わせられる。
やや乱暴に押し付けるような勢いに、あずみの頭が後ろに振れた。
閉じていた唇を押し開くようにぬるりと舌が入ってきて、先端どうしが触れた瞬間、体の奥がきゅうっと疼いた。
「…んぅ…」
あたまがぼうっとして、くぐもった声が勝手に出てしまう。その途端キスがいっそう性急なものになり、湿った音が部屋に響いた。
「…っ、」
(や、これ以上は…!)
まずい気がする。あずみは混乱して、キスを一度中断したくて、体を引こうとした。
しかし、彼はあずみが怯んだのを逃さないとするかのように腰を抱き込み、ぐっと体を寄せてくる。
ふわっと視界が揺れる感覚があり、気がつくとあずみはベッドに押し倒されていた。
あずみが驚いて顔を上げると、眼前の彼の顔はもっと驚いているように見えた。
まるで、自分でもどうしてそんなことをしたのかわからない、というような。
「…!ゴメン」
和玖君はぱっと起き上がり、あずみもすぐに手を引かれて起きた。
硬めのマットレスがぎし、と軋む。焦って力の加減を上手く出来なかったのか、彼に握られた手首がじわりと痛んだ。
「…」
二人きりの空間が、気まずさで満たされる。和玖君はあずみの顔を見られないようだった。
「だ、大丈夫だよ」
何か声をかけた方が良いような気がして、あずみは意識して明るい声を出した。
「ちょっとびっくりしたけど、気にしないで」
「本当にゴメン」
あずみが言い終わらないうちに、和玖君が謝ってきた。その表情と声色には強い後悔が滲んでいる。
「大丈夫。私、気にしてないから…」
「俺、最低だ…大切にするって言ったのに」
和玖君は自分を責めている。あずみはどうしようか迷って、彼の手に自分の手を重ねた。
「そんな、最低なんて言わないで欲しいよ」
あずみが言うと、ずっと顔を背けていた和玖君がこちらを見る。あずみはその頬にゆっくりと手を伸ばして、そうっと触れた。
こんなことで、私は嫌いにならない。少しでもその気持ちが彼に伝わって欲しいとあずみは願った。
和玖君は少しの間されるがままになっていたけれど、ふいにあずみの手首をきゅ、とつかまえて言った。
「…もう少し大人になったら」
「うん」
「セックスしたい。篠原さんと」
「……」
そんなことをあけすけに言われて、思ったほどあずみが動揺しなかったのは、それを口にした彼の表情にいやらしさなどはみじんもなく、ただただ誠実な思いが伝わってきたからだ。
「…うん」
一拍遅れて、あずみは返事をした。
言葉ではっきり言われると恥ずかしかったけれど、それ以上に彼に求められている事が嬉しいとあずみは感じていた。
「私も、したいよ。しよう。大人になったら」
気持ちを伝えると、和玖君は目を丸くした後、またキスをしてきた。

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