恋を知らない小鳥~幼馴染の愛に包まれて~
駆けつけてくれるのは、いつだって
静寂の中に響く時計の秒針が煩わしく感じ、詩陽は耳を塞いだ。
甲斐と一緒にいるよりはいいが、一人になると悪いことばかり考えてしまう。
「もう、帰れないのかな……」
いや、それよりも。
「伶弥に、もう二度と会えないのかな」
そう思うと、止まったはず涙が零れてくる。
先程から、詩陽は何度もこの繰り返しをしていて、心身ともに酷い疲労感を感じ始めている。
視線を上げると、甲斐の狂気を目の当たりにしてしまうせいで、ずっと俯いているから、気分もどんどん落ちていく。
相変わらず吐き気があって、めまいもあるし、呼吸にも違和感がある。
完全な過呼吸を起こしていないだけ、まだいいかもしれない。
膝を抱き寄せて、更に小さくなった時、コンコンとノック音が聞こえた。
詩陽の体は飛び跳ね、後ろにあった壁に肩を強打した。
「詩陽、パンを食べよう」
鍵を開ける音の後、ドアから顔を出した甲斐がパンの袋を見せてきた。
「いりません」
「パンを楽しみにしていたでしょう? おなかも空いただろうし」
「楽しみしていたのは、貴方と食べるパンじゃない!」
思わず叫んでしまい、我に返った詩陽は慌てて口を塞ぐ。
「じゃあ、何を楽しみにしていたの? 僕と食べるパンじゃない? だったら、誰と食べるつもりだった?」
口を一文字にした甲斐が一歩ずつ、詩陽に近寄ってくる。
背後が壁になっている詩陽には、もう逃げ場がないというのに。
失言だったと気付き、詩陽は口を塞いだまま、激しく首を振る。
「詩陽の可愛い声を聞きたいのに、そんなふうにしたら、聞けないな。ほら、詩陽。言ってごらん? 僕とパンが食べたいって」
口が裂けても言いたくない。
可愛いと言われる声を出すことすら、強い抵抗感がある。
手の中で唇を噛み締めると、鉄の味が口の中に広がった。
いっそ、舌を噛んで死んでしまった方がいいかもしれない。
こんな男に人生を奪われるくらいなら、そうしてしまった方が幸せな気がする。
詩陽は自分の思考がおかしくなっていることに気付くことなく、目の前に跪いた甲斐を睨みつけた。
「そんな顔もできるんだね。いいね、ますます好きになっちゃうよ」
ニッと口角を上げて笑う甲斐を見て、詩陽は不快感から背筋を震わせた。
一体、何をすれば幻滅してくれるのだろう。
一体、どう返事をするのが正解なのだろう。
このままでは精神的にどんどん追い詰められていき、近いうちに完全に壊れてしまうに違いない。
「帰らせて」
「詩陽のお願いでも、それだけは聞けないな。それ以外なら、聞いてあげるよ」
詩陽は甲斐を睨みつけたまま、最適解を探してみるものの、やはりこの状況で冷静になれるはずもなかった。
何一ついい案が浮かばず、目元が熱くなっていく。
だが、涙だけはグッと堪えた。
こんな男の前で泣けば、また気持ち悪い反応が返ってきてしまうかもしれない。
「詩陽は意外に強情なんだね」
そして、また「可愛い」と呟き、甲斐は詩陽に手を伸ばしてきた。
詩陽は焦って、床に手を突き、横に這ったが、空回りした体はほとんど移動することなく、呆気なく腕を掴まれてしまった。
「やっ、離して」
「これから二人で生きていくんだよ。そんなふうに逃げたって、詩陽が僕のものであることは変わらないのに。それとも、そういうのが好きなの?」
甲斐は首を傾げながらも、腕を離す気配はない。
そういうのがどういうものか、詩陽には理解できず、返事をすることもできない。
変なことを言えば、墓穴を掘ることになりそうだ。
詩陽はただ繰り返し、首を振って、腕を振り解こうとした。
細身で力なんてなさそうなのに、腐っても男だ。
小柄の詩陽ではその腕を緩めることすらできなかった。
「まあ、今は一緒に居られることになって、胸もいっぱいなのかもしれないね。パンはもう少し後にしようか」
そう言うと、甲斐は腕を離したため、詩陽は動きにくい体を叱咤し、必死に部屋の隅まで這った。
その様子を見つめていた甲斐がまた何かをするかと思い、身構えていた詩陽だったが、甲斐はそのまま踵を返し、部屋から出て行った。
ドアが閉まり、鍵がかかるのを待って、詩陽はほうっと息を吐いた。
先程までは、鍵がかかっていることを絶望していたが、今となってはありがたく思う。
甲斐を突き飛ばして、その向こうにあるドアに突進するのもアリだっただろうか。
もっと行動を起こせばよかったかもしれないが、甲斐を目の前にすると、体も思考も委縮してしまって、何もできなくなってしまう。
詩陽は膝を抱えて座り直し、頭を乗せて小さくなった。
何か、逃げ出す作戦を考えなければならない。
詩陽が逃げることを諦めてしまったら、本当の終わりが来る気がする。
本当は伶弥に助けに来てもらいたいと、何度も自分勝手なことが過っている。
居場所がわからないのだから、助けに来るなんて不可能だし、それ以前に、都合よく頼ってばかりの自分にも嫌気がさす。
自分の問題なのだから、自分で解決すべきだ。
そう思い、挫けそうになる心を必死に奮い立たせた。
気を張り続けるのも、そのうち限界はやってくる。
今が何時かはわからないが、数時間は経ったようだ。
伶弥も、そろそろ詩陽がいないことに気付いたかもしれない。
夕飯を作って、帰りを待ってくれているのではないか、と思うと、ものすごく会いたくなるから困ったものだ。
伶弥と一緒に暮らす前は、毎日一緒にいたわけではない。
それぞれの生活があったし、会えない時間も特別寂しいとは思わなかった。
それなのに、今は数時間会えないだけで、もうこんなにも会いたくなっている。
「伶弥にぎゅってしてもらいたい」
会うだけでは物足りない。
抱き締めて、頭を撫でて、キスして欲しい。
優しい顔だけでなく、熱のこもった瞳に見つめられたい。
際限なく欲張りになっていることに気付き、詩陽はこつんと頭を叩いた。
その時。玄関のチャイムが鳴り、詩陽は息を止めた。
「一人暮らしなんだから、お客さん? それとも、宅配かな……」
助けを求めるチャンスかもしれない。
ここは玄関からそれほど離れていないから、大きな声を出せば聞こえるはずだ。
詩陽は甲斐の足音を聞きながら、両手を強く握り締めて、ドアの近くまで移動した。
玄関の開く音がして、小さな話し声が聞こえる。
ごくりと息を飲んで、大きく息を吸い込んだ。
「た」
「詩陽!」
詩陽が「助けて」と叫ぶよりも早く、ずっと焦がれていた声が詩陽を呼んだ。
「伶弥! ここ! ここにいるよ!」
詩陽は叫びながら、ドアをどんどんと叩く。
古い木のドアはガタガタと揺れるが、詩陽の力では開けることはできなそうだ。
だが、すぐそこに伶弥がいる。
「待ってろよ!」
叫んでいる伶弥の声ははっきり聞こえるが、甲斐の声は聞こえない。
何かを話している様子はわかるのに、内容がわからずに気持ちだけが焦る。
ドアを叩き続けていると拳がだんだん痛くなっていくが、何もできない今はやめることができない。
「どけ!」
聞いたことがない伶弥の乱暴な言葉に、詩陽は目を見開き、ドアを叩くのを忘れてしまった。
耳を澄ませていると、何かがぶつかる音がした後、慌ただしい足音が聞こえた。
「詩陽! ドアから離れろ!」
伶弥の声が聞こえた瞬間、詩陽は考えるよりも先に、後ろに飛び退いていた。
すると、まるで退くのを見ていたかのように、大きな音が響き、ドアから強い衝撃が伝わってきた。
一瞬の静寂の後、ドアが内側に向かって倒れてきて、その向こうに伶弥の姿を見ることができた。
「……伶弥」
「詩陽、来い!」
伶弥が両手を広げたのを見た詩陽は、迷うことなく床を蹴った。
勢いよく飛び込んできた詩陽を、伶弥は危なげなく抱き留め、力強く抱き締める。
詩陽はすっかり慣れたいい匂いを胸いっぱいに吸い込み、その胸に頬を摺り寄せた。
「遅くなって、ごめん。何かされなかったか?」
「ううん、来てくれてありがとう。私はただ閉じ込められていただけだから、大丈夫」
それだけでも全く大丈夫ではなかったが、詩陽はこれ以上、伶弥に心配をかけてくなくて、精一杯虚勢を張った。
伶弥の大きな手が詩陽の頭を撫でると、固まっていた体と心からゆっくりと力が抜けていく。
「何、勝手に詩陽に触っているんだよ!」
突然聞こえた声に、詩陽は伶弥の腕の中で飛び上がった。
そんな詩陽を宥めるように、伶弥の手が何度も背中を擦ってくれる。
「お前の方が勝手に連れ去って、閉じ込めてるんだよ!」
伶弥の怒鳴り声が、体にビリビリと響く。
こんなに怒っている伶弥は始めて見た。
詩陽は伶弥の服を掴んでいた手を背中に回し、ぎゅっとしがみつく。
「私は、貴方のものじゃありません。貴方と一緒に住むことはないし、もう会うこともありません」
詩陽はすっかり震えの止まった手で伶弥の感触を確かめながら、甲斐を真っ直ぐ見据えて言い切った。
一人では言えなかった。
結局、伶弥の存在が、詩陽を強くするのだ。
「僕たちは愛し合っているでしょう?」
甲斐は血走った眼で言うと、詩陽の方に手を伸ばした来た。
それを伶弥が叩き落す。
「汚い手で、詩陽に触るな!」
「お前が言うなぁぁぁ!」
目を吊り上げた甲斐は聞いたことない程の大声で叫び、ポケットに手を突っ込んだ。
詩陽はそれをなんとなく見ているだけだった。
伶弥がいれば、もう大丈夫だと、どこかで思っていたのだ。
相手が罪を犯している男で、何をするかもわからないような人であることを忘れて。
甲斐がポケットから出した手に持っていたものを見ても、すぐに状況を理解できなかった。
非現実的で、それが自分の目の前で起こっていることだと実感が持てなかった。
「僕のものだぁぁぁ!」
甲斐の叫び声が耳に刺さり、バタフライナイフが迫って来て、初めて状況を理解した。
「詩陽!」
伶弥の切羽詰まった声が聞こえた瞬間、詩陽の体はより強く抱き締められていた。
そして、ドンと強い衝撃を感じ、詩陽の精神は限界を超えた。
暗転していく視界に伶弥の顔が見えた気がするが、表情まではわからなかった。
「伶弥……」
伶弥の無事を確かめたいのに、どんどん感覚はなくなっていき、遂に、詩陽は暗闇へと落ちてしまった。
「恋を知らない小鳥~幼馴染の愛に包まれて~」を読んでいる人はこの作品も読んでいます
-
橘部長を観察したい!~貧乏大学生と無表情なエリート部長がこっそり結婚するお話~
-
35
-
-
お久しぶりです。俺と偽装婚約してもらいます。~年下ワケあり生真面目弁護士と湯けむり婚前旅行~
-
56
-
-
私の赤点恋愛~スパダリ部長は恋愛ベタでした~
-
20
-
-
Pessimist in love ~ありふれた恋でいいから~
-
58
-
-
冷徹上司の秘密。〜彼は私にだけ甘い。
-
38
-
-
冷徹御曹司の無駄に甘すぎる豹変愛
-
41
-
-
溺愛誓約~意地悪なカレの愛し方~
-
74
-
-
戻ってきた初恋はバラの香り~再会した御曹司の豹変ぶりに困惑しています~
-
92
-
-
19時、駅前~俺様上司の振り回しラブ!?~
-
25
-
-
不器用な愛し方
-
14
-
-
身代わり婚約者は生真面目社長に甘く愛される
-
78
-
-
本日、総支配人に所有されました。~甘い毒牙からは逃げられない~
-
50
-
-
鈍感秘書は辣腕社長に溺愛されていますが、どうにもすれ違い気味みたいです
-
64
-
-
契約書は婚姻届
-
40
-
-
冷たい部長の甘い素顔【完】
-
87
-
-
Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―
-
9
-
-
嫁ぎ先の旦那様に溺愛されています。
-
29
-
-
傷痕~想い出に変わるまで~
-
18
-
-
どうにもならない社長の秘密
-
61
-
-
ただいま冷徹上司を調・教・中・!
-
28
-
コメント