恋を知らない小鳥~幼馴染の愛に包まれて~
いなくなった詩陽
伶弥はデスクに置かれた書類から目を離し、今は誰もいないフロア内を見回した。
昨夜、とうとう詩陽を抱いた。
気付いた時には詩陽に想いを寄せていたのだから、片想い歴はかなりの長さを誇っている。
鈍感な詩陽に伶弥の想いがどの程度、届いたのかはわからない。
伶弥にも、これまで冗談のように伝えてきた自覚があるから。
それは恋愛方面に疎く、男性恐怖症になってしまった詩陽を思えば、仕方ないことだったと思っている。
距離を置かれるよりは、想いが伝わらない方がいい。
そう思ってきた。
「それにしても、昼間の詩陽はな……」
昼休みに廊下で騒いでいる詩陽たちを見た瞬間、会議前で時間がないというのに、つい声をかけてしまっていた。
何かを疑っていたわけではないが、昨日の今日だ。
エッチが下手だったとか、気持ち良くなかったなどと言われていたらと思うと、気が気ではなかった。
結局、騒ぎの内容を把握できるどころか、仲は良くないとまで言われてしまった。
詩陽が二人の関係を周囲に隠そうとしていることは知っている。
やはり嫌われている伶弥と仲がいいと思われると、仕事しにくくなるのだろう。
自分は何を思われても構わないが、仕事が大好きな詩陽の居心地が悪くなるのは全力で避けたい。
いつもなら全速力で仕事にキリをつけ、夕飯づくりのために帰宅するのだが、今日はどうしても不安でズルズルと会社に居残っている。
「どこが鬼上司なんだか」
伶弥ははぁっと大きな溜息を吐き、腕を組む。
背もたれにもたれると、古い椅子が軋む音が鳴った。
こんな情けない姿、詩陽には絶対に見られたくない。
悩んでいる姿も、落ち込んでいる姿も。
伶弥には塩対応の詩陽ではあるが、本当は心配性であるこも、優しいこともよく知っている。
もし、自分が原因で伶弥が悩んでいると知ってしまったら、とんでもなく気にして、落ち込むことになるだろう。
だから、へらへらと笑って帰れるようになるまで、伶弥はこうして仕事をして過ごしているのだ。
とはいえ、先程から、詩陽のことばかり考えていて、仕事にならないのだが。
伶弥は腕時計を確認し、コツッと文字盤を突いた。
すでに十九時半だ。
いつもなら、夕飯を食べる時間である。
詩陽はいつも通りの時間に帰って行ったから、今頃困っているかもしれない。
いや、もしかしたら、料理しようと奮闘している可能性もある。
「下手なのが、また可愛いがな」
伶弥はククッと笑い、先日作ってくれた料理を思い出した。
一生懸命作ったことはわかるし、恐らく作り方も間違ってはいない。
それなのに、昔から詩陽の料理はイマイチ美味しくならないのだ。
「逃げていたって、何も解決はしないな」
そろそろオネエの仮面を被ることができそうだ。
被らないと、がっつきそうで怖い。
詩陽一筋で生きてきた伶弥は、当然、昨日が初めてだった。
上手くできるか不安ではあったし、気持ちよくしてやれるか、心配でもあった。
何より、初めてだと知られるのは絶対に避けたいことだったから、とにかく必死だったのだ。
上手くいったかはわからないから、こうして帰るのが怖いわけだが、いつまでも帰らないわけにもいかない。
とにかく平然を装って帰るしかない。
伶弥は何度目かわからない溜息を吐き、重い腰を上げた。
「ただいま、詩陽?」
玄関を開けると見えるはずのリビングの灯りが、今日は見えない。
リビングのドアは擦りガラスの部分があって、必ず光が漏れてくるはずなのに。
伶弥は言い知れぬ不安を感じ、足早にリビングのドアを開けた。
ヒンヤリとした空気は、朝から一度も温かくなっていないことを窺わせ、部屋の至る所を確認しても、物が動いた形跡のないことが、詩陽の帰宅を全否定していた。
「詩陽!」
呼んでも無駄なことはわかっているのに、伶弥は何度も詩陽の名前を呼びながら、家の中を見て回った。
リビングはもちろん、キッチンもダイニングも、詩陽の部屋も伶弥の部屋も。
洗面所と浴室にもその姿は見つけられず、トイレまで見たところで、遂に伶弥は頭を抱えて、その場にしゃがみ込んだ。
「もしかして、怒って帰った……?」
むかつくほど痛かったとか、実はすごく怖かったとか。
伶弥の中で、様々な可能性が飛び交うが、どれが答えなのかは判断できない。
「もう近寄るなって言われたら、どうするんだよ」
伶弥は深い溜息を零し、ガシガシと頭を掻く。
ずっと我慢してきたのに、西村と仲良くしているところを見て、限界に達してしまったのだ。
少しずつ、少しずつ、自分にだけ慣らしていくはずだったのに。
「俺のことはどうでもいいか。今、一人にしておくのはまずいな」
詩陽の隠し撮り写真と怯える詩陽を思い出し、伶弥は勢いよく立ち上がった。
謝って許してもらえることでありますように、と内心で祈りつつ、リビングに放り投げていた鞄からスマホを取り出した。
呼び出し音が止み、留守電の音声が流れるのを聞くと、脈拍が急速に速くなった。
今は二十時を過ぎようとしている。
詩陽が会社を出たのは、ほぼ定時だっただ。
詩陽はもともと物欲もないし、飲み歩くタイプでもないため、仕事以外で帰宅が遅くなることは滅多にない。
強い焦燥感に襲われ、伶弥はリビングの中をウロウロと歩き回る。
何気なく見たローテーブルの上に乗っている柴犬の置物に気付き、それを手に取った。
二人で百円ショップに行った時に、珍しく詩陽が気に入ったものだった。
もっといい物を買ってやりたいのに、詩陽が欲しがる物はいつも安いものばかりで、プレゼントになるような物を強請られたことがない。
伶弥は柴犬を手の中で転がし、行方のわからない詩陽を思い浮かべる。
行先を言わずにいなくなっただけでもおかしいのに、電話にも出ない。
考えたくはないが、まず間違いなく、トラブルに巻き込まれている。
伶弥はソファーに座ると、再びスマホを操作し、詩陽を呼び出してみた。
そして、諦めかけた時、プッと音が途切れたため、伶弥は耳にスマホを強く押し当て直した。
「詩陽! 今、どこにいる!?」
思わず大きな声になってしまったが、うるさいと怒られたら、それも併せて謝ればいい。
帰って来ない理由を聞き出し、謝るなりフォローするなりして、ここに帰ってきてもらわないと困る。
伶弥が耳を澄ませていると、ククッと低い笑い声が聞こえた。
「誰だ!」
耳に入った瞬間、反射的に怒鳴り、立ち上がっていた。
ソファーからぎゅっと革の軋みが聞こえ、それと重なるように、大きな鼓動が体の中で騒がしく響いた。
「可愛い詩陽は、僕のものだ。ずっと狙っていたのに……横取りしたのはお前だ」
「ふざけんな! 詩陽はお前のものじゃない。今どこにいるんだよ。詩陽を出せ!」
詩陽のスマホに男が触っている。
それが、どれだけ異常な状況であるかは考えるまでもない。
伶弥は耳を澄ませて、男の言葉以外の情報も得ようと試みた。
だが、電話の向こうは静まり返っていて、詩陽の気配すら感じ取れない。
「僕と詩陽の新居だよ。二人きりの新しい生活が始まるんだから、邪魔しないでくれるかな」
男の声からにやけていることが伝わってきて、鳥肌が立つ。
ストーカーの異常性は過去の事件で知っているつもりいたが、やはり慣れることはないようだ。
自分が被害者なら、いくらでも耐えてやるが、標的が詩陽である以上、伶弥はどんな些細なことでも我慢ならない。
それから、伶弥は短い時間で、必死に考えた。
怒鳴っても、男の言うことを否定しても、恐らく電話を切られておしまいだ。
それなら、男の気を引いて、なんとかして居場所を突き止めるしかない。
この電話を切られてしまったら、もう繋がらなくなる可能性が高い。
伶弥は心の中で、呪文のように『慎重に』と繰り返す。
詩陽を失うかもしれないという恐怖が手を震えさせるし、詩陽の状況を想像してしまえば、焦りと憂慮で胸が張り裂けそうになる。
「詩陽も嬉しそうにしていたから、君も心配しなくていいよ。じゃあ」
「ま、待て! お前、詩陽の写真を集めるのが好きなんだよな?」
男を怒らせて、詩陽に危害が加わることだけは避けなければならない。
絶対に失敗は許されないのだ。
緊張のせいで、動悸が激しくなっており、未だかつてないほど、心臓の存在を感じる。
「いくら撮っても、足りないくらいだね」
この言葉で写真を送り付けてきた犯人であると確信した伶弥は、ゆっくり深呼吸をした。
「小さい頃の詩陽の写真、見たくないか?」
まるで詩陽を売るようで胸が痛いが、こうする以上に、男の関心を引ける話題がなかった。
伶弥は目を閉じ、詩陽の顔を浮かべる。
泣いて、パニックになって、吐き気と過呼吸で壊れそうになっているかもしれない。
「小さい頃の詩陽? 今も未来もいくらでも撮れるけど、過去は戻れないからな……見たい」
男が言い切った瞬間、伶弥はこっそり拳を握った。
「それなら、今から持っていこう。場所を教えてくれ」
伶弥は冷静を装いながらも、唇を噛み締めて、呼吸が乱れそうになるのを堪えた。
「このスマホにデータを送ってよ」
「昔の写真だから、データでは残ってないんだ」
「……わかった」
男の返事までの数秒が、ひどく長く感じられた。
それでも、なんとか了承の返事をもらった伶弥は男の自宅を聞き出し、マンションを飛び出した。
「恋を知らない小鳥~幼馴染の愛に包まれて~」を読んでいる人はこの作品も読んでいます
-
橘部長を観察したい!~貧乏大学生と無表情なエリート部長がこっそり結婚するお話~
-
35
-
-
お久しぶりです。俺と偽装婚約してもらいます。~年下ワケあり生真面目弁護士と湯けむり婚前旅行~
-
56
-
-
私の赤点恋愛~スパダリ部長は恋愛ベタでした~
-
20
-
-
Pessimist in love ~ありふれた恋でいいから~
-
58
-
-
冷徹上司の秘密。〜彼は私にだけ甘い。
-
38
-
-
冷徹御曹司の無駄に甘すぎる豹変愛
-
41
-
-
溺愛誓約~意地悪なカレの愛し方~
-
74
-
-
戻ってきた初恋はバラの香り~再会した御曹司の豹変ぶりに困惑しています~
-
92
-
-
19時、駅前~俺様上司の振り回しラブ!?~
-
25
-
-
不器用な愛し方
-
14
-
-
本日、総支配人に所有されました。~甘い毒牙からは逃げられない~
-
50
-
-
身代わり婚約者は生真面目社長に甘く愛される
-
78
-
-
鈍感秘書は辣腕社長に溺愛されていますが、どうにもすれ違い気味みたいです
-
64
-
-
契約書は婚姻届
-
40
-
-
冷たい部長の甘い素顔【完】
-
87
-
-
Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―
-
9
-
-
嫁ぎ先の旦那様に溺愛されています。
-
29
-
-
傷痕~想い出に変わるまで~
-
18
-
-
どうにもならない社長の秘密
-
61
-
-
ただいま冷徹上司を調・教・中・!
-
28
-
コメント