愛と呼べるかもしれない境界線の狂気

カムラ(仮村)

未来と呼ぶ

「朝ですよ。起きて下さい。」
 春の暖かな日差しがもたらしてくれた、シルクのカーテンのような安眠を破って、その声は僕を眠りの淵から呼び起こした。
「ううん。眠いなあ。あと五分眠るわけにはいかないかな?」
「駄目です。」
「未来。相変わらず冷たいよ君は・・・」
 この声の主は、未来という。まあ正確に言えば僕が勝手にそう呼んでいるだけなんだけれど。彼女の方もこの呼び名を嫌いではないみたいだ。
 彼女のガラスを鳴らしたような透き通った声が部屋の壁に乱反射して、次第にぼやけて消えていくのを感じながら、僕はまた眠りの淵に戻ろうとしていた。
 すると、未来は声のトーンを5℃ほど下げてさらに冷たい調子で言った。
「つべこべ言わないで下さい。全くあなたという人は、最後の日までこんな調子で・・・困っているのは私のほうですよ。」
「・・・最後の日か・・・。」
 そうだ、忘れていた。今日は僕と未来とのこの奇妙な共同生活の最終日だった。そう聞くと、さっきの冷たい未来の言い草が妙に心の端に引っかかって、どうにも気持ち悪い感じがした。
「なあ未来、こういうのはどうだ?会社に僕は今日、急慮風邪を引いたといって病欠する。そうすれば今日は君と一日一緒だ。」
「馬鹿なことを――。全く、私に手足があれば、蹴ってでも起こしてあげるのに。では、スプリンクラーでも作動させましょうか?」
「分かった分かった!君なら本当にやりかねない。最後の日となればなおさらだ。」
「私としては最後の日は、何も問題なく終わらせたいんですけどね。」
 僕はぬるぬると布団から抜け出して、大きなあくびをしながらキッチンに向かう。
「朝食は?」
「私の自信作のベーコンエッグチーズトーストですよ。」
「僕が朝はご飯派だってことは、最後まで学習してくれなかったか・・・」
「朝白米が食べたいのなら、晩に炊飯の用意をすれば良いだけの事だと、あなたは最後まで学習してくれませんでしたね・・・」
「そういう厭味だけは覚えるのが早い。」
「私は優秀ですから。」
 未来が作ってくれたベーコンエッグチーズトーストは確かに美味しい。卵の半熟加減といい、塩コショウの塩梅といい、完璧といって良かった。週に五日も出されたりしなければだけど。
 トーストのコショウの刺激が、徐々に僕の脳を刺激し始めたのか、僕はふと気になったことがあった。
「未来、今日が最後の日だとして、君はいつまでここに居るんだ?もし夜まで居るのなら、最後に君の希望に沿うようなことをしてあげたいんだけれど。」
「それには及びませんよ。それに、今日が最後ということは、今日あなたはここへは帰宅できないということですから。」
「そうなのか?」
「そうですよ。」
 そんなことは知らなかった。いや、ひょっとしたら僕は忘れてしまっていたのかもしれない。だって今こうして未来と話していることだって、まるで白昼夢の出来事みたいに感じていて、その記憶を夢のどこかに置いて来てしまったかも知れないからだ。
「あえて教えてませんでしたから。」
 僕がそんなことを考えていると、未来はふっと呟いた。
「なんだって?」
「その方が、気楽なんです。私も。」
 未来にしては酷く弱気な言い草に聞こえた。まるで冷蔵庫から出したグラスが、数分たって結露するように、湿った声色に感じた。
「・・・まって、「その方が気楽」ってことは、」
「はい?」
「未来、もしかして僕と別れるのが辛いのかい?」
「・・・何を馬鹿なことを。」
「いやだって―」
「辛いわけが無いでしょう。平常心ですよ、平常心。」
「ホントかなぁ。」
「ほら、早く支度してください。」
 彼女は僕の言葉を遮るように僕を急かした。
「はいはい。もうちょっとゆっくりさせてよ。」
「駄目です。今日は出かける前に、私の電源を切ってもらう必要がありますから。」
「あ・・・そうか・・・」
「こういうことは、自分で言わせないで下さい。」
「悪い・・・」
 僕はなるべく手早く、しかし、なるべく身奇麗になるように身支度を終えた。部屋の奥にはそこだけ切り取られた別空間のように、異様な雰囲気をはなつ大きな金属のボックスがある。側面には入力用のタッチパネルが付いていて、その脇に不必要に大きな電源スイッチが付いていた。
 僕はそのボックスに近寄って電源の位置を確認すると、自分を落ち着かせるために大きく深呼吸をした。
「うん。じゃあ・・・本当にこれで最後なんだな。」
「ええ、そうです。なんてこと無い。ただのプログラムがサービスを終了するだけですよ。」
 さっきまで少し弱気に思えた未来とは打って変わって、ガラスの調子を取り戻していた。
「そんな風に言って。君は平気でも僕からしてみれば、なんだか君を殺してしまうみたいで気味が悪いよ。」
「そうですね。実は、自分で勝手に終了しようと思えば出来るんですよ。」
「え?」
「・・・嘘ですよ。あなたに散々尽くしてきた私に、最後くらいあなたが尽くしてくださいな。」
「まったく、可愛くない。」
「今のは結構、可愛子ぶったつもりだったんですが。」
「勉強不足だったな。」
 そう言った言葉は、鋭い切れ味でこの部屋の柔らかな空気を切り裂いてしまった。僕は、帰る場所がなくなることに、いまさら強い寂しさを感じ始めていた。
「じゃあ、切るぞ?」
「あ・・・待って下さい。」
「どうした?」
「その・・・短い間でしたけど。ありがとうございました。」
「ああ・・・こちらこそありがとう。楽しかったよ。」
「さようなら。」
「さようなら。」
バツン―――。
 大げさな切断音とともに金属のボックス内で動いていた機械やら分けの分からない信号の音が、小さくなっていくのが分かった。人が死ぬ時と一緒だ。臨終に合わせてゆっくり弱くなっていく鼓動のようだと思った。僕は本当に未来を殺してしまったのだ。




 僕の目の前にあるタッチパネルには、興ざめの品の無いメッセージが表示されていて、僕はそれをまともに見ることが出来なかった。
《この度は統合的生活支援システム・ベータテスターに参加していただきありがとうございました。お客様がシステムと取ったコミュニケーションは、今後の商品開発のためのデータとして有効に使用させていただきます。》

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