愛と呼べるかもしれない境界線の狂気

カムラ(仮村)

グレースケール

   此の地の僕

 部屋の中央に置かれた二十インチの埃まみれのテレビは、電源を付けているのにも関わらず何も映さない。真っ黒な画面の端から、バックライトの光がぼんやりと浮かび上がっているのが分かる。その画面の後ろにある高さ2メートルほどの窓の奥では、昨日から降り続く雨が地面を叩く音が鈍く部屋に響いていた。
「疲れた…。」
 渇ききった喉から、聞こえるかどうかの大きさで独り言が漏れた。手にした鞄を力なく床に落とすと、僕は崩れるようにベッドに突っ伏した。
「ズボンを干さなきゃ…雨に濡れて…。洗い物も…今日少しでもしないと…また溜まってしまう・・・。」
 そうわざと声に出して自分に言い聞かせるが、体が言うことを聞かない。休息をせがむ体は、これ以上動くことを拒む。
 1年前、大学を卒業し、就職を機に上京してきた。六畳一間の小さな城は、僕のこの一年が、いかに苦労の連続であったかを表しているかのように、薄汚く散らかって、擦り切れた雑巾のようだ。
「ダメだ…今日はもう寝よう…。明日頑張って早く帰ってこよう…。」
 そうやって自分の心を甘やかすと、僕は深い眠りの淵に沈んでいった。

「恭介。」
 ふと、急に誰かに名前を呼ばれた。しかし、僕の瞼は上と下が縫いつけられたみたいに、しっかりくっついていて開きそうにない。
「恭介。どうしたの?遊ぼうよ。」
 その声はまた呼びかけてくる。どこか聞き覚えのある声だ。そうだ、この声、この声は確か――。
「信二くん?」
 そう口にすると、瞼を縫い付けていた紐がするすると解ける感触がして、僕は自然と目を開いていた。目の前には面長で頬に乾いた泥を付けて笑う少年がいた。
「やっと起きたね。さあ、遊ぼうよ。」
 少年はぱあっと目を輝かせると、僕の腕を掴んで綱引きのように引っ張り上げた。
「待ってよ。僕は今、疲れてとても眠いんだ。明日もまた仕事だし、少しでも眠りたいんだ。」
 僕はこの空間の真実に感づきながら、現実の僕の状況を冷静に考えていた。(崩れ落ちるように眠り込んだ体だ。夢なんて見ていないで少しでも深い睡眠をとらなければ。)
「そうか、君はそっちのほうが大事なんだね。こっち側よりも。」
 少年は僕の手を掴んでいた、やけにひんやりした手を放して寂しげに呟いた。

 次の日、頬にシーツの皺の痕が盛大に付いているのを鏡で確認しながら、僕は昨日の夢のことを考えていた。
(あれは確かに信二くんだった。)
 彼は小学生のころ住んでいた田舎の友達だ。中学生から今の実家に引っ越して以来、彼のことは時々思い出す程度だったのに。どうして今になって急に、夢で彼のことを思い出したんだろう。
 そんなことを考えながら、僕はまた行きたくもない仕事に行く準備を、小慣れた調子で着々と進めていく。

「東京お台場は雨が降っています。今日の天気は全国的に雨。地域によっては強く降るところもあるでしょう。」

 目覚ましテレビのお天気キャスターが、爽やかな調子で語りかけてくる。ああ、今日も雨か、と僕はますます憂鬱な気分に飲まれながらテレビを消した。
 信二君のいる町にも雨が降っているのだろうか、彼もまた、僕と同じようにこの降りしきる雨に心を沈ませているのだろうか。などと考えながら、乾ききらぬ傘を携えて家を出るのだった。

   彼の地の彼

 去年の地震の後から、耳障りな音で軋んで開くようになった襖を開けると、ザーザーと色の無い音を奏でてブラウン管の灰色の画面が光っていた。その温度の無い光に照らされて、ぼおっと浮かんでいるように見える窓には、横向きの風に煽られてへばり付いた水滴が光っていた。
「今日も随分降っているな。」
 声の振動につられて、揺れた髪の先から水滴が落ちて、足元の畳の中に染み込んでいった。
「ああ、早く体を拭いてしまおう。畳がカビたら大変だ。」
 今日の労働で気だるく火照る乳酸の溜まった身体が、キシキシと音を立てるのが聞こえるかのように痛む。その痛みに顔をしかめながら、箪笥から取り出したタオルで身体を拭く。
 この町で生まれてから、二十年以上も共に過ごしてきたこの住み慣れた家は、僕の人生が染み込んでいるかのように複雑な色が混ざって、黒く変色してしまったようだ。
「さてと、明日に備えて早く寝てしまおう。明日は早くから現場があるし。」
 そうやって、ささやかな責任感で自分を律したつもりになって、僕は深い眠りの淵に沈んでいった。

 視界がぼんやりと明るくなり、頬を柔らかな風が撫でる感覚がして目を開けると、鼓動が早くなるほど真っ赤な夕焼けの空が広がっていた。伸びすぎた芝が茂る打ち捨てられた空き地の真ん中で寝転んでいたようだ。あたりを見渡すと、僕と同じように寝転ぶ少年がいた。
「恭介。」
 その少年を見て、すぐさま気がついた。僕は傍に駆け寄ると、肩を持って揺り起こした。
「恭介。どうしたの、遊ぼうよ。」
 僕は心まで少年に戻ったみたいに、はしゃいで彼を起こそうとした。その声に気がついたのか、恭介も目を開けた。
「信二くん?」
「やっと起きたね。さあ、遊ぼうよ。」
 久しぶりの再会に胸が躍る。彼の腕を力いっぱい引っ張っていた。
「待ってよ。僕は今、疲れてとても眠いんだ。明日もまた仕事だし、少しでも眠りたいんだ。」
 恭介はひどく迷惑そうな表情を浮かべながら、僕の手を振りほどいた。僕は高まっていた鼓動が失速していくのを感じた。体温がすーっと下がっていく感覚がした。
 そうだ、彼は東京に行って、今まで連絡も取っていなくて。あれから何年も経ったのに、あの時と同じように仲良く遊べるだなんて、子供じゃあるまいし。彼には彼なりに今の大切な場所があるんだろう。
「そうか、君はそっちのほうが大事なんだね。こっち側よりも。」
 そう言って彼に向かって手を振った。

 次の日、根元から立ち上がるような寝癖が盛大に付いているのを鏡で確認しながら、僕は昨日の夢のことを考えていた。
(あれは確かに恭介だった。)
 彼は小学生のころ近所に住んでいた友達だ。中学にあがる頃引っ越してしまって以来、彼のことは時々思い出す程度だったのに。どうして今になって急に、夢で彼のことを思い出したんだろう。
 そんなことを考えながら、僕はまた疲れの癒えないまま、仕事に行く準備を小慣れた調子で着々と進めていく。

「東京お台場は雨が降っています。今日の天気は全国的に雨。地域によっては強く降るところもあるでしょう。」

 目覚ましテレビのお天気キャスターが、爽やかな調子で語りかけてくる。ああ、東京でも同じように雨が降っているのか。
 僕の町にも道路に川を作る勢いで雨が降っている。彼もまた、僕と同じようにこの降りしきる雨に心を沈ませているのだろうか。などと考えながら、乾ききらぬ傘を携えて家を出るのだった。


 灰色の雨は体を濡らし 心を濡らしていく
 それは空の流した雫であり 僕らの心が流した涙だ
 なのに幾ら溢れても この魂は乾いてゆく

 幼いころの夏の日の太陽に 奪われたままの夢
 あの場所に今もあるのなら それでいい
 叶えようなどという熱は 何度もかいた汗で湿気てしまった
 霞む思い出と共に光れ

 空は灰色の雫をいつまでも注ぎ続ける


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