愛と呼べるかもしれない境界線の狂気

カムラ(仮村)

紅い薔薇

「おはよう、ハル。」
 陽平は寝癖の治まらない頭でリビングにまでやってくると呼びかけた。しかし、「ハル」と呼ばれた人物からの返事は無い。彼の声は、1LDKの小奇麗なアパートの一室に響いて、緩やかに壁に染みこんで行った。
「なあ、ハル。いい加減に機嫌を直してくれよ。返事くらいしてくれたっていいじゃないか。」
 そう言って陽平は、部屋の真ん中に置かれたテーブルの上の、蕾のままの薔薇に水を差した。
「お前も意地っ張りだよなあ。」
 ハルがこんな姿になった理由は、誰にも分からない。陽平とハルは、1年近く付き合いのある男女だ。二人とも良い年齢なので、そろそろ婚約という空気も感じてきていた頃だった。ある晩、二人は付きあってから、初めての大喧嘩をしたのだ。今となっては彼ら自身もどんな理由で喧嘩をしていたのか思い出せない。
「じゃあ、行って来るよ。ハル。」
 そう言って陽平は薔薇の蕾にキスをした。それは、ハルがこうなってしまうまで、二人の朝の習慣だった。今となっては、陽平のささやかな試行錯誤の一部となっている。
(古くさいおとぎ話のように、ハルが元に戻ってくれたら・・・)

「ただいま、ハル。」
 陽平は仕事から帰ると、ビデオ店から借りたDVDを取り出した。
「覚えてるか?ハルが見たがってた映画、レンタルが始まったんだぜ。一緒に見ような。」
 その映画は、ありふれた、しかし、ハルの好きそうな映画だと陽平は思った。
「お前は、こういう分かりやすい話が好きだよな。」
 そう言いながら、そっと蕾を撫でた。薔薇の蕾は開く気配も無いまま、しかし、不思議と生気に満ち溢れた瑞々しさだけは、いつまでも失わないのだった。

 その夜、陽平は不思議な夢を見た。彼はハルと共に今日見た映画を再び見ていた。仲良く互いの好きな酒を交わしながら。だが、陽平と隣り合って座るハルは、薔薇の蕾の姿のままだった。薔薇のハルは、両手のように伸ばした葉を器用に使ってグラスを傾け、陽平の話に気さくに相槌を打ったりしていた。
 次の瞬間、画面に映ったシーンに陽平は驚愕した。それは、踊子が観客の前でフラメンコを踊る映画のワンシーン。だが、真っ赤なドレスを纏ってステップを踏むのは、ハルだ。何日ぶりかに見る人間の姿のハルだ。そしていつしか、陽平は彼女を取り囲み座る観客の一人になっていた。
 ハルは口元にドレスと同じ色の薔薇を咥えている。彼女の動きにあわせてその薔薇がゆらゆらと揺れる。陽平は言い知れぬ不安感に駆られ、ハルの口元の薔薇に意識が集中していった。
 彼女の踊りが最高潮に達した時、耐え切れずに花弁が一枚ひらひらと舞って床に落ちた。その瞬間彼は、異常なほどの嫉妬が立ち上るのを感じた。
「見るな!」
 陽平は思わず叫びながら、ハルに近寄り、その口から薔薇を奪った。
「痛っ!」
 突然手のひらに痛みが走り、驚いて手を見ると、薔薇に生えていた棘が深々と刺さっていた。黒々とした血が滲む。ふっと足元を見れば、血が滴っている。彼の手から落ちた血ではない。血の滴る元を見るとハルの顔があった。陽平が強引に奪ったからだろうか、ハルの口元は薔薇の棘によって手酷く切り裂かれていた。
(何だ、こんな醜い女だったか。)
 陽平はそんな風に思い、彼女に感じていた愛情が、急激に冷めていくのを感じた。

 冷め切った心のまま、目が覚めた陽平は、いつものように酷い寝癖でリビングにやってきた。するとどうだろうか、テーブルの上では昨日まで固く結ばれていた薔薇の蕾が開かれ、それは見事な真っ赤な薔薇が咲き誇っているではないか。その美しさは、この小さなリビング全体が、この花を中心にして鮮やかに光り輝いて思えるほどだった。カーテンの間から一筋迷い込んだ日の光が、真直ぐに花弁を照らし、その紅さに陰影を付けてなお魅力的にさせていた。
「なんて綺麗なんだろう。」
 陽平は、視線をそのままにゆっくりと薔薇へと近寄った。薔薇を照らしていた日の光が陽平の身体にも垂直に線を引く。その朝日のように、心に差し込んでくる暖かな感情を彼は感じた。それは、かつて彼がハルに対して抱いていた感情そのものだった。
「俺は、薔薇に恋しているというのか?」
 その時の彼には、自分がハルを愛しているのか、薔薇の姿をしたハルを愛しているのか、薔薇を愛しているのか全く分からなくなってしまっていた。ハルという女が居たのかどうかすら、分からなくなってしまっていた。

 その日の夜、陽平は再び夢を見た、同じ映画の夢だ。ただ一つ違うのは、観客に囲まれ音楽に合わせて、フラメンコを踊るのは、ハルではなく薔薇であった。薔薇は人の背丈程度に成長して、両手のような葉を振り乱し、二股に分かれた根っ子を両足のようにはためかせながら、情熱的なカルメンを踊っている。観客達はニヤニヤといやらしく笑いながら彼女の踊りを見ていた。
「止めろ!」
 陽平はまたしても、どうしようもない嫉妬に駆られた。
「駄目だ!彼女を、彼女をそんな下劣な視線で見つめるんじゃない!俺の薔薇だ!俺が愛して止まない大切な薔薇だ!」
 そう叫んで、彼は薔薇を観客から奪った。薔薇を抱きかかえて走る彼に、薔薇の棘が突き刺さった。それでも彼は、その痛みすらいとおしく感じていた。
 いつしか薔薇は、花瓶に刺さった元の大きさに戻っていた。しかし、大きさに似合わず重みのある存在の様に感じられた。どれだけ走っただろう。ずいぶんと長く走ったように感じていた。一度休憩が必要だと、抱えていた薔薇を地面へと下ろして、彼女を見つめていた。だが、どういうことだろう、見るうちにたちまち薔薇が鮮やかな赤色を失って、どす黒く萎れてしまった。陽平は、なすすべも無くそれを見ていることしか出来なかった。彼は、果てしない後悔を感じ、ただ涙を流していた。

 眼が覚めると、彼の両目の端には乾ききらぬ涙が光っていた。その日初めて彼は、リビングに行く前にシャワーを浴びた。寝癖を整え、髭を剃り、歯を磨いた。そうして出来る限り綺麗にした格好でリビングにやってきた。リビングで衰えることなく美を放っている薔薇を優しく抱き寄せ、綺麗な花びらにそっと悲しいキスをした。
 彼は薔薇を始めて外へ出した。玄関から階段を降り、道路へ出て、普段出勤に使う道を進んだ。やがて人通りの多い大きな通りにやってくると、その脇の街路樹の袂に露出した土を掘り、薔薇をそっと挿した。
 陽平は、悲しさが微塵も湧き上がらない自分に絶望しつつ、薔薇の花弁をそっと撫でながら聞こえるか聞こえないかの声で囁いた。
「さよなら、ハル。」


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