愛と呼べるかもしれない境界線の狂気

カムラ(仮村)

聖女の片棒

「先生、主人は胸が苦しいと言っております。」
 掠れた声の主を、私は見ることなくカルテの上でペンを踊らせる。
「それで、どんな風に苦しいですか?ヅキヅキと脈打つ様ですか?グーっと圧迫されるようですか?」
「先生、主人は何か刺さったようにズキズキ痛むと言っております。」
「そうですか、一度精密に検査してみましょうね。依然された喉頭癌の転移も否定できませんし。」
 そう言って私は、老夫婦の主人にレントゲンや血液検査といった、思いつく限りの検査をした。結果は、癌の再発だった。心筋の近くに癌が転移していた。それだけでなく、体の至る所に転移しているようだった。この痛みと戦う主人のことを思うと、私はそれだけで心が重くなった。
 その宣告を老夫婦にすることは、それ以上に心が重い。治療には困難を要するだろう、しかし、まだ希望はあるというのが私の意見だった。
 だが、夫人は再び主人の声無き言葉を通訳して、私にこう聞かせるのだった。
「先生、主人は治療しなくて良いと言っております。」


「しかし、まだ治らないと決まったわけではないのですよ。」


「先生、主人はもう我が家には蓄えがないと言っております。」


「ですが・・・・・・」


「先生、主人は今までもう十分すぎるほどに生きたと言っております。」


「・・・・・・・・・」


「先生、主人は今までありがとうと言っております。」

 一年後、この主人は亡くなった。最後までこの夫人は、声の出ない夫の通訳をしていた。
 私は、彼女が夫の声を聞くことができるのを、深い愛の力だと考えていた。だが、この話を疑り深い友人にすると、
「君ね、それはもしかするとその女はとんでもない悪女で、夫をあえて死なせたのかもしれないよ。」
と言うのだ。
 私は悪女の片棒を担いだのだろうか。しかし、そう言われてもなお、私は彼女の深い愛を信じたくてたまらないのだ。
 これは、私の願望だろうか。聖女の愛の片棒を担いだと、自分に言い聞かせたいのだろうか。

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