愛と呼べるかもしれない境界線の狂気

カムラ(仮村)

血染めと移り香

 この街に漂う退廃的な空気を、凝縮したような世界。それが僕と理子さんが働く店だ。毎夜、毎晩、今日で世界が終わってしまうかのような様子で、泥まみれのくたびれ顔の男達が酒を煽る。人はこの酒場を愚かだと罵るだろう。それでも僕らはこの世界で生きている。ここは馬鹿野郎達の集う店。
 夏も終わり秋が来るからだろうか、爽やかな涼しさの中で体が火照るのが気持ちよいのだろう。普段以上に酒が大量に消費されていく。僕はあわただしく動き回りながら、大量の酔っ払いにうんざりしつつあった。心の中で「馬鹿野郎どもが」と悪態をついていた。
 ガシャン
 軽快な音を立てて、硝子の割れる音がした。フロアに溢れかえった人々の視線は、喧騒を劈くような音によって、その方向へと集中する。
 僕は、落ちたワイングラスを拾い上げようと手を伸ばした。その時、運悪く指先を硝子の破片で切りつけてしまった。突然の痛みに驚いて手を引くと、ぽたぽたと血が滴っていた。かなり深く切ってしまったらしい。僕はその場で作業をやめて、バックヤードへ絆創膏を探しに向かった。
 バックヤードに入ると、休憩中の理子さんが居た。理子さんは細く長い指で挟んだ煙草を口から離し、煙を吹かすと話しかけてきた。
「茜君、どうしたの?」
「硝子で指を切ってしまって。」
「あら本当、酷い怪我じゃない。まってて、消毒した方が良いわ。」
 そう言って理子さんは煙草を揉み消すと、薬箱を物色し始めた。ゆらゆらと漂う紫の煙が巧みに、理子さんの姿をベールのように覆った。僕は、なお滴る血を止めようと指を強く掴んでいた。
 割れた硝子の音に遠慮していたフロアの客達の話し声が、緩やかに勢いを増してきていた。誰の声とも分からなくなった、喧しい音がバックヤードにまで広がってくる。僕は、薬箱を漁る理子さんの後ろで、少しバツが悪い思いをしていたから、今はこの騒がしさが妙に落ち着く。
 僕がこの店で働くようになったのは、理子さんよりも早かったけれど、理子さんはあっという間に僕との上下関係を逆転させてしまった。だというのに僕は、何処かこの関係を心地よく思っていた。「理子さん」と僕が彼女を呼ぶのは、年上だというだけでなく、彼女の言動から自然とそんな風に呼びたくなってしまう。そんな理子さんの性格が快かった。
「よしっと。これだけあれば大丈夫でしょ。」
 理子さんはそう言って消毒液、コットン、絆創膏を持って振り返った。燻っていた煙草の煙が、彼女の髪に巻きついていた。
「ほら、手を出して。」
 言われるがままに手を差し出すと、理子さんはやさしく僕の指を押さえながら消毒液を垂らした。消毒液が傷口に染みて、刺さるような痛みに顔をしかめた。理子さんはそんな僕の反応に相槌を打つように少し微笑みながらコットンで傷口を拭いていた。
 消毒液で滲んだ僕の血液が理子さんの指に付いているのが見えた。
「はい、これで大丈夫。仕事に戻っていらっしゃい。」
 ちゃちゃっと素早く絆創膏まで張り終えた理子さんはそう言うと、再び煙草に火を付けた。僕は指にかすかな違和感を感じながらも、仕事に支障が無い程度だと確認した。
「ありがとうございました。」
 純粋なお礼を理子さんに向かってした。理子さんは煙草を持った手を挙げてひらひらと振った。その手を見て、僕はドキリとした。理子さんの美しい指には僕の血が付いたままだった。その指のまま煙草を吸っていた。僕はなんだか急に恥ずかしくなって、すぐにこの場を離れたい衝動に駆られた。
 ガシャン
 またしても乾いた音がフロアから響いてきた。
「また割った。」
 ふっと愚痴のような台詞が漏れた。
「今日もすっかり馬鹿騒ぎになっちゃってるわね。」
 理子さんも紫煙と共に愚痴を溢す。
「茜君みたいな子は、やっぱりこういう場所は苦手なんじゃない?騒がしいし、人は乱暴だし。」
「そんなこと無いですよ。楽しいです。」
 そんな風に言い残して、僕はフロアに帰ってきた。割れたグラスを片付けながら、理子さんの指を思い返し、今の時期にこの辺りに咲く彼岸花のようだと空想していた。彼女は気が付くだろうか、僕の血で染められた煙草を咥えていることを。もみ消す時にあっと驚くのだろうか。それとも、それにさえ気付かずに自然と薄れていく痕跡と共に過ごすのだろうか。
「馬鹿なことを!」
 誰かに責められた様な気がした。いや、気のせいではなく確かに聞こえた声だ。声のした方へ反射的に振り返った。しかし、眼に入るのは人の顔、顔、顔、馬鹿な顔たちが並んでいる。皆、酒に恋して、料理に恋して、女に恋して、男に恋して、この店にやってくる。愚か者達の騒ぐ夜、僕もまたそんな愚か者の一人なのだ。この騒がしい店の中で、皆平等に馬鹿なのだと感じた時、不思議な一体感と共に泣きたくなるほどの孤独感に襲われた。
 ふと、理子さんの煙草の香りがして、彼女の姿を探したが見つからない。それでもなお香りがするので、香りのする先を探しているうちにその元が僕であると知った。理子さんの移り香だ。僕は気付かぬうちに彼女の香りに染まっていた。理子さんの香りに包まれながら、僕が感じた孤独が緩やかに解けていくのを感じた。

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