愛と呼べるかもしれない境界線の狂気

カムラ(仮村)

あの交差点で

 渋谷という街は、僕のような田舎出身者にとっては憧れの街だ。センター街のあの有名なスクランブル交差点を渡ることは、上京者が一度は体験してみたいことの一つだろう。
 そんな渋谷、今日は東京にしては珍しく霧が立ち込めている、薄霧に遮られて人々の視線は自然と足元に向けられる。一度に何百もの人が行きかう街で、他人の足を踏んづけてしまわないために。霧の立ち込めた渋谷の中で、まるで霧から逃げようとするように、何処かを目指して早足で歩く。ある人はローファーの踵を踏み潰したまま。ある人は高いヒールで器用に歩きながら。
 しかし、そんな早歩きの人々の歩みは唐突に止まる。スクランブル交差点の歩行者信号が、赤に変わるからだ。車通りも多いこの街の交差点では信号が長い。そして、信号が変わるまでにどこからやってきたのか、また多くの人々で横断歩道に続く歩道は溢れかえる。
 僕は、増えゆく人々を横目にアクセルを踏み込む。車の中から見る渋谷は、それまで見てきた街とはなんだか違うように見えた。僕は、たまたま道を間違えてこの交差点を通って迂回する羽目になり、普段なら避けて通りたいこの喧騒の中に飛び込んだ。ただでさえ、今日はこの霧のせいで見通しが悪い。誰か突拍子も無く飛び出してきたりはしないかと、信号待ちの人だかりに注意を向け続ける。といっても、今日は薄霧だ。決して全く人の影が見えないわけではない。大学生になりパソコンでレポートをやり続けたせいか、最近めっきり悪くなった僕の両目でも、人の顔までしっかりと判別できる程度だ。そうやって人ごみを眺めて、僕はハッとした。
「あれは、僕じゃないか!」
 速度を上げていく車に合わせて、そろそろしっかり正面を向こうと視線を走らせた、その瞬間だった。視界の端に、見覚えのある顔が映り込んできた。あれは、間違いなく僕だ。
 車は数秒で交差点を抜け、今はもう原宿へと向かって走っている。しかし、道を進めながらも僕の頭はさっきの光景を絶え間なく思い返していた。あの顔、あの格好、あれはまさしく僕自身だ。あの格好、そうあの格好だ、あの時僕はあの格好をしていた。そうして思い出した一つの思い出があった。
 僕がまだ車の免許も取らず、電車で移動をしていた頃だ。渋谷へも、何度かしか行ったことが無かった。しかし、当時付き合っていた女性とちょっと背伸びをして、渋谷で待ち合わせをして遊んだ。そんな、あの時の格好を、今日車の中から見た僕はしていた。
 彼女とは、付き合って三ヶ月だったと思う。当時の僕は、三ヶ月も付き合って手も繋いだ事も無いような初心な男だった。しかし、渋谷のスクランブル交差点はそんな僕にささやかな勇気を与えてくれた。あまりにも多くの人が行き交い、彼女と離れてしまいそうになった時に、とっさに手をとってしまったのだ。それからは、その経験が糧となって、その日一日中、事あるごとに手を繋ぎ初めて触れる彼女の掌の感触に頬を染めていた。
 しかし、僕にはその日もう一つやらなければならないことがあった。それは、交際を申し込んで以降、一度も言った事が無い彼女を愛しているということを、もう一度その日に伝えようと心に決めていた。だが、あの日の僕は初めて彼女と手を繋げたことに予想以上に浮かれてしまっていた気がする。結局、その日は思いを伝えられないままに彼女と「またね」と別れたのだった。
 そんな、くすぐったい思い出を浮かべながら、車は原宿も通り過ぎた。少し長い迂回路は、ようやく元の道へと引き返してきた。
「渋谷を車で通っただけで、こんなに感慨深いなんて。」
 などと考え出していた。二年前には、交差点の人だかりに会わなければ女性の手も握れなかったような僕が、そんな交差点を背景に車を走らせている。
 少し大人びたような気持ちになっていた。当然、二年間で何か変わるわけじゃない。変わったことといえば、僕は彼女と別れたということくらいだ。あれほど恋焦がれていた女性との最後は、思っていたよりもずっとあっけなく終わった。彼女から「私たち、もう、別れない?」と聞かれた時、あんなにもすんなり受け入れることが出来るとは。きっとあの瞬間まで僕は思っていなかったのに。
 もしかしたら、あそこで一言、もう一度、彼女への愛を伝えられていたら、結末は違ったのかもしれない。そんな風に、思ったことは一度や二度ではないが、過ぎ去ったことを考え出しても仕方が無いと割り切れる程度には大人になったようだ。
 いや、きっとあの時、あの交差点ですら思いを伝えられなかった僕には、別れの間際にもう一度なんて事できるはずも無いのだろう。
 そういうことにして、彼女との思い出は今日はこのくらいにしておこう。そうやって、頭を切り替えようとした時、僕はまた一つ思い出した。
「違う、僕はあの時、伝えたんじゃなかったか?」
 それは、同じ日の何度目かに交差点を渡る時、うっとうしいくらいの人の多さに、僕は一つ考えたんだ。
 今この場で、こっそりつぶやけば、誰にも気付かれないんじゃないか。ひょっとしたら彼女にさえ気付かれずに、そっと囁くことが出来るんじゃないか。そんな風に考えて、僕はすぐさま実行したんだ。
「―――――。」
 僕は、その時なんと言ったんだろう。今思い返してみても、その時につぶやいた言葉が、全く思い出せないでいる。なんだかもどかしくて、僕は頬を掻いた。その感触は、なんとなくあの時の彼女の手の感触のように思われた。
「そうだ。」
 結局、僕が何とつぶやいたかは思い出せないままだ。でも、何かをつぶやいた後、ほんの少し間をあけて、彼女がきゅっと繋ぐ手に力を込めたことを思い出した。
 あの時の言葉は、彼女に届いていたのだろう。そういうことにしておこう。
「ああ、今も交差点でうな垂れているあの時の僕よ、君のささやかな挑戦は、今日の僕にこれほどまでに爽やかな思い出をもたらした。若き君には、納得のいかない結末だろうか、今の僕は非常に満足している。これが大人になるということだ。だから君はいつまでも若々しくあれ、そして、大人である僕にこうして爽やかな記憶を与え続けてくれ。」
 渋谷の霧が見せた幻想の自分に届けるように叫びながら、僕はアクセルを踏み込んだ。軽快なエンジン音が車内に満ちる。渋谷の喧騒を思い出させるような音に聞こえた。

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