犬神の花嫁

千絢

14

彼女が居なくなった教室は、今まで以上に静まり返っていた。誰もが息を潜め、時だけが流れていく。










「ーータマのやつ、穢れ祓いこそ教員に任せりゃ良いのにな」










「穢れ祓いまでしてこそ巫女の勤め、なんだろう。誰も怪我はないな?」








「…はい。あの、煌希様。タマちゃんは、大丈夫なのでしょうか?」








蝶子の言葉に狐の次期当主、御先は口を閉じる。大丈夫だと言えば大丈夫なのだろうが、自分がそれに対して答える術がなかった。








栫井環妃という少女…いや女性に、九尾の狐である己でさえも恐れを抱かずには居られない。何を考えているのかも分からないからか。底知れぬ力を持っているからなのか。その両方なのかも知れないが、とにかく気を付けて相手にしなければと思ってしまう。








「あれは大丈夫だよ、イヅさん」








「なんや、朔夜?昔馴染みの自信か?」








「そうだよ。あの程度で弱る巫女なんて、ワタツミ様は必要としないしね」








「ワタツミ?」








「ありゃ、知らない?花嫁にゾッコンの海神のことだけど」










朔夜の言葉に妖たちは目眩を覚えた。なんとなく、なんとなく分かっていたけれど。まさか、本当にそうだったとは。思いもよらない、思いたくもなかった事実に目の前がチカチカした。








『そりゃ、鬼に突っ掛かって消し飛ばしているしな』とか『だから尋問だのなんだのって自信ありげに言ってたんだな』とか、それだけで納得はいったけど。








父にイザナギ、母にイザナミ、弟にスサノオを構える家宅六神が一柱として生まれた、大海を統べる神ワタツミ。裏世界では最強かもしれぬとまで言わしめている神でもある。










「あまりのビックネームに言葉が出ねえ」










「ワタツミ様は、花嫁にゾッコンだけど、愛弟子で姫巫女でもあるアイツのこともゾッコンらしいよ。えっと、親バカって言うんだっけ?」










「…ワタツミ様が、親バカ」










「俺も聞いた話だから知らないけど。だから、まあ、あれだよ。アイツはさ、神様ばっか相手してたから、人と関わるの下手くそだし、元々不器用だから、」










「ーー斎火くん。だぁいじょうぶ。誰もタマちゃんを否定しないよ。タマちゃんが不器用なのも知ってるし、アレはひよたちを思って言ってくれたことなんだよね」










気まずそうに頭を掻く朔夜。つっけんどんだった犬神の青年が、人間臭い表情をしている。そのことに女子生徒たちの心は温かくなった。うっすらと微笑んでいる少女もまた、変化し始めているクラスに胸を高鳴らせていた。










花嫁だからと守られていただけの日々。それはやがて、見えない壁となって立ちはだかっていた。










ひよと嵬くんの間にも壁があったんだよ、タマちゃん。それが、ちょっとだけ脆くなった気がするの。タマちゃんのおかげだよ。何も知らない花嫁だったけど、ほんの少しだけ彼らが生きる世界を知ることができたから。










「嵬くん。嵬くんたちが生きている世界のこと、ちゃんと教えて?」










「……しゃあないなあ。煌希、特別授業の予定入れといてや?」








「……はぁ」








「煌希、いずれは教える時が来るんだ。今教えたって、後で教えたって何も変わらないよ」










気乗りしない御先の肩を軽く宥めるように叩く朔夜。








御先は何も知らない無垢な花嫁のまま、飯綱のことを真綿で包み込みたかった。狂おしいほどの愛情は、鳴りを潜めることはない。溢れ出さんとする熱烈な愛は、御先の理性さえも焼き尽くそうとする。飯綱の目を耳を己の手で塞ぎ、手足は複数ある尾で絡め、御先煌希という存在に縛り付けていたかった。








ーーーその願望は、収まりを知らない。










「あかんな、煌希の奴トんどるわ」








「…はあ。どうせ教えなきゃならないんだし、明日にでも組んでおくようにしとくよ」








深い思考の海に堕ちた御先を横目に、特別授業の段取りは滞りなく進んでいく。










その狂気染みた愛情を抱くのは、何も御先だけではない。この場にいる全員が抱えているものだ。その愛情は、花嫁にとって盾にも矛にもなる。










何も見せないという盾。
汚ない世界の一辺でさえも見せたくないという願いは、自分たち妖に対して、恐ろしいという感情を、記憶を持たせたくないという想いからなるものだ。










何も見せないという矛。
何も教えられず、愛されているだけの日々は花嫁にとってストレスにもなる。花嫁にとって妖の狂気染みた愛情は、本当の狂気になりかねるのだ。他の妖から命を狙われる可能性がある中で、外出も自由にさせてもらえない。心を病み発狂する花嫁も少なくはない。










「栫井にぶん殴られるよ、煌希」








「…っ」








「皆、怪我ひとつなく生きてるんだから。花嫁たちはもう寮に帰らせて、俺たちも対策を立てないと。元老院や教員は役に立たないし」








「やるっきゃないか。ほな、夕食後に寮の特別室で会議っちゅうことでええな?」








「「はい」」








「それまではじっくりゆっくり花嫁と向かい合うといい」








「朔夜は何処に行くんや?タマのとこか?」








「さぁな」










背を向けた朔夜に、飯綱が声をかけた。それは、二人が知り合いだと分かってから、ずっとずっと疑問に思っていたことだ。








「ーーあのっ、斎火様!なぜ、タマちゃんのことをアレとかアイツとか仰るんですの!?タマは無理でも、せめて栫井とでも呼べばっ」










「あー…。イヅさん、それはアイツ、じゃなくて栫井に聞いて?答えてくれると思うよ。じゃ、またあとで」










振り返った顔は困惑でいっぱいだった。なんであんな顔をするんだろう。飯綱は必ず聞き出そうと密かに手を握った。





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