ただいま冷徹上司を調・教・中・!

伊吹美香

誰も知らない彼の秘密(7)

ドアを開けて二人で玄関内に入るとさすがに狭い。

私は靴を脱ぎ短い廊下右の扉を開いた。

すぐにダイニングキッチンがあり、そこの明かりをつけると左の引き戸を開ける。

リビングの電気を付けたところで、ようやく平嶋課長が玄関からこちらにやってきた。

「お邪魔します」

そう言って入ってきた平嶋課長は、当然ながら会社で見ている課長の雰囲気ではない。

私だけが知っている平嶋課長に、不覚にもほんの少しだけ胸が高鳴ってしまった。

「座っててください」

突っ立っていた平嶋課長をリビングの小さなソファーに促すと、私はキッチンに置いてあるコーヒーマシンのスイッチを入れた。

「平嶋課長、晩御飯どうしますか?簡単なものでよかったら作りますけど」

この三連休、おかげさまでなんの予定もなく、買い物ににしか行かなかったので冷蔵庫の中は充実している。

大抵のものなら作れるだろうと思い声をかけたのだが。

「いや、大丈夫だ」

キッパリと遠慮され、「そうですか」と私は引き下がった。

コーヒーの入ったマグカップを二つリビングに持って行き、私は平嶋課長と向き合うように小さなテーブルの前に座った。

「コーヒーどうぞ」

少し濃いめのコーヒーを口にして、私は短く溜め息を着く。

「平嶋課長にお話があります」

冷静にそう言うと、平嶋課長の表情に緊張が走ったのがわかった。

「平嶋課長は元カノと別れた理由、お忘れですか?」

「いや」

「一応覚えてるんですね?だったら質問はひとつです」

ムスッと不機嫌さを隠さず私は平嶋課長を見据えた。

「恋人同士になってから今日まで、一度も連絡をくれなかったのはなぜですか?」

ぽかんと口を開けてこちらを見る平嶋課長を見て思った。

こいつ……なにも考えてなかったな?と。

この女心無関心者をどうしてくれようか。

こうしてくれ、ああしてくれ、と言うだけでは、きっと平嶋課長は変わらない。

細かく噛み砕いて教える必要がある。

私はまるで教育者にでもなった気持ちで平嶋課長と向き合った。

「いいですか?女は恋人からの連絡をいつでも待っているものなんです」

「それは以前も聞いたが、連絡する要件がどうしても思いつかなかったんだ」

思いつかなかったということは、一応は連絡しようと考えたわけか。

しかし結果的に連絡しなければなんの意味もない。

要は仕事と同じ、結果が全てなのだから。

「用事なんて必要ないんです。自分のことを思い出して連絡してくれたということが大切なんです」

「用事もなく連絡したとして、その先はどうするんだよ」

本当にこの人は……。

仕事では先を見越して行動できるのに、どうしてそれを恋愛に生かせないんだろうか。

「ただ声が聞きたい。同じ時間を共有したい。その気持ちだけで自然と会話はできます。用事はないけど連絡した、ってだけでいいんですよ」

「そんなものか……?」

どうも腑に落ちてないようで、平嶋課長は眉間に皺を寄せながら何かを考えているようだ。

「声が聞けた。声が聞きたいと思ってくれた。それが嬉しいんですよ、女は。業務連絡じゃないんですから、深く考えずにそれだけ覚えといてください」

「理解できない……」

溜め息をつく平嶋課長に、私は一言大事なことを助言した。

「平嶋課長が女心を理解できるはずがありません」

「それは俺の頭が硬いのか?」

「いえ。基本的に女は自分勝手だからです」

そうだ。

私自身が私の気持ちを理解できないのに、平嶋課長に理解できるはずなんてないんだから、考えるだけ無駄なんだ。

「そもそも」

平嶋課長はテーブルを指でトンと鳴らすと、ソファーから下りて床にあぐらをかいた。

小さなテーブルひとつを隔てて、同じ高さの目線で平嶋課長と見つめ合うなんて初めてで。

緊張からか、私の胸は大きく音を立て始めた。

無駄に顔がいい男はこれだから困る。

「だいたいなんで待つんだよ。求めないで連絡してくれればいいじゃないか」

「それは……プライドの問題です」

「全くわからん」

「でしょうね」

私にだってわからない。

どうしてあんなに平嶋課長からの連絡を待っていたのか。

恋愛偏差値の低さに腹が立ったけれど、それだけではなかった気もする。

今までは彼から連絡がなくても、なにかしらの理由があったのだと納得していた。

下手にこちらから連絡して忙しかったら……などと考えて遠慮していた部分が大きかったが、そんな時いつも相手は浮気していた、と。

そんな聞き分けがよく諦めも早かった私が平嶋課長の連絡をイライラしながらも待っていたなんて。

……せっかくのイケメンだから、構って欲しかったのだろうか。

「とにかく。連絡はマメにしてください。週末デートも大切です。全部の時間を私に使えとは言いません。週末の1日だけ、恋人らしいデートをしましょう」

私がそう言うと、平嶋課長は苦笑いを浮かべた。

「考えてもわからないから久瀬に教えてもらうことにしたんだよな。ちゃんと久瀬を恋人として見て勉強させてもらうよ」

「よろしくお願いします」

私を恋人として見ると言った平嶋課長の言葉に驚くほどときめいて、私はお辞儀に見せながらニヤける顔を隠した。

「よし。準備できた」

寝室の鏡で自分の姿を念入りにチェックして、私は口紅を抑えたティッシュをゴミ箱に捨てた。

ゴールデンウィークの中日となる5月5日土曜日。

今日は私と平嶋課長の記念すべき初デートだ。

火曜日に連絡はこまめに、週末デートは忘れずに、と念を押してから、平嶋課長は電話やメッセージを送ってくれるようになった。

もちろん急に成長するわけもなく、メッセージといえば一言日記だし、電話は本当になんの用事もない。

『電話かければ会話はなんとかなると言ってたくせに。なにも話すことがないじゃないか』

そう文句を言ってきた平嶋課長にはカチンときた。

『そこは声が聞きたかっただけだ、とか、機転を利かせられないもんですかねっ?平嶋課長の言葉は、お前とは話すことがないって言ってるのと同じですっ』

強めの口調でそう言う。

どうやら私は平嶋課長に対しては、対等に接することができるようだ。

それはやっぱり(仮)の関係だからだろうか。

『……久瀬の声が聞けてよかった。たとえそれが文句でも』

『一言余計っ!』

会社の電話でしか聞くことのなかった平嶋課長の電話独特の声が、今では私のスマホから聞こえる。

そのことが不思議で楽しくて嬉しくて。

まさか本当にデートするまでになるなんて思ってもみなくて。

胸元で切り返された、グリーンのポリエステルチュニックとベージュのパンツ姿に満足して、ハーフアップに編み込んだ巻き髪を揺らしながら玄関に向かった。

もうすぐここに、平嶋課長が車で迎えに来ることになっている。

完全なプライベートの一日は、いったいどんな日になるんだろう。

私は大きく深呼吸をして家を出た。



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