ただいま冷徹上司を調・教・中・!

伊吹美香

始まりは意地と恥(10)

「顔さえよければ何したって許されると思ってるの!?ふざけんじゃないわよ!このクズ!」

凄まじい怒涛の後に響いたのは、パァァンという頬を打つ音だった。

私は目の前で繰り広げられている男女の修羅場を目撃し、信じられない面持ちで見つめていた。

ここは某ショッピングモールのレストルーム前。

一番端のレストルームとはいっても、喫煙所もベビールームもあるこの一角は、決して人が少ないわけではない。

にも関わらずこんな行動に出た女性は目を見張るほどの美人だ。

私では決して履きこなせない高いピンヒールに、ボディーラインが美しく見える細めのワンピース、長い髪はツヤツヤと輝いている。

誰が見ても美人だと認めざるを得ない女性が睨み付けているのは、長身で足が長く恐ろしい程に整った顔立ち。

こんなイケメン見たことがない……はずなのだが。

「3ヶ月も私に連絡ひとつよこす時間はないくせに、こんな所でのんびり買い物する時間はあるのね。私がどれだけ剴莉の連絡を待ってたかなんて、どうせ微塵も考えたことないんでしょう?」

剴莉……なんとなく聞いたことのある名前を耳にして、私は失礼と思いつつも男性の顔をマジマジと見つめた。

「そんなに私が面倒くさいなら別れてやるわよ、バカッ!」

捨て台詞を吐いて去っていく女性に言い訳することも止めることもせず、唖然としてその場に立ち尽くすバカな男はまぎれもない……。

「平嶋……課長……」

平嶋剴莉、私のイケメン上司、その人ではないか。

なんて場面を目撃してしまったんだろう。

知らない人ならば内心面白おかしく「フラれてやんの」と笑い飛ばす出来事だ。

けれどクズだのバカだのと言われていたのが、あの完璧な平嶋課長ともなれば話は別というもの。

面白そうに、かつ哀れみの視線を受けている平嶋課長を救出してやらねば。

私は弾けるように駆け出すと、平嶋課長の腕をグイッと引っ張った。

周りのことなど見えていなかったのであろう平嶋課長が、ビクッと肩を揺らして私を見下ろす。

「え……久瀬……?」

「行きますよっ」

突然のことで唖然としている平嶋課長の腕を強引に引っ張って、私は好奇の目から彼を救い出すことに成功した。

無言で歩き続けてたどり着いたのは、先ほどの位置から真反対側のレストルーム付近。

ここは占い店や小さなクリニックなどが営業していて、ほとんど人はいなかった。

しかし困った。

人目のつかないところに連れていかなくてはと思い、こんなところに引っ張りこんだが、これから先のことを考えてなかった。

あんな場面を目撃して、何をどう言言えばいいのか思い悩んでいると、「すまない」と平嶋課長はポツリと呟いた。

「みっともないところを見せてしまったな」

初めて見る眉を下げた頼りない表情は、目の前の人が本当に平嶋課長なのかと思わせるほどだ。

「まぁ……正直言って驚きましたけど……。でも平嶋課長にはこの前助けていただいたので」

「あれとこれとは状況が違うだろ」

「それはそうですね……。まさか女にビンタくらってバカ呼ばわりされてる平嶋課長を見るなんて思ってもいませんでした」

「恥ずかしいからやめろ……」

私のズケズケした物言いに、平嶋課長は口元を手で覆いながら顔を逸らした。

「公衆の面前でビンタされるくらいのこと、やらかしたんですか?」

私には無関係だということはわかっているが、好奇心のほうが先に立ち、ついつい踏み込んだことを聞いてしまった。

「あの人、彼女ですか?それとも浮気相手とか?」

モテる男は何人も女がいるという浅い先入観があるもので、ついついそんなことを口走った。

私の言うことを理解できないとでも言うように、平嶋課長は眉を顰めた。

「久瀬が俺のことをどんな目で見ているのか、よくわかった」

「変な目では見てません。それだけのお顔をお持ちなんだから、そりゃ入れ食い状態だろうなぁと思ってるだけです」

「偏見だ」

怯んでしまうほどスッパリと言われると、平嶋課長は誠実な恋愛とやらができる人なのか?と思えてきた。

「じゃ、彼女だったんですね?」

「……そのはずだったんだけどな」

ちゃんと断言できないあたり、今の状況が上手く把握できてないないのかもしれない。

「3ヶ月くらい会ってなかったから……なのか?」

「3ヶ月も彼女とデートしてなかったんですか?電話やメールなんかでフォローしてました?」

平嶋課長が自ら彼女とマメに連絡を取るなんて想像もできないけれど、ポイントポイントでしっかりフォローすれば、3ヶ月会わなくてもなんとかなるんじゃないだろうか。

「仕事でゆっくり話す時間もなかったし、特に話したいこともない。なのにわざわざ連絡する必要があるのか?」

「はっ?」

じゃあ何か?

この人は3ヶ月間、彼女に連絡すらしないまま会ってもなかったということなのか?

「そりゃフラれます……」

さっきまで哀れに見えていた平嶋課長が鬼に見え、彼女のほうか哀れに思えてきてしまった。

「私は平嶋課長が忙しいのはわかりますけど、彼女は平嶋課長の仕事の事情なんて知らないんですよ?ちゃんとフォローした方がよかったんじゃないですか?」

彼女だって3ヶ月間、きっと祈る気持ちで平嶋課長からの連絡を待っていたに違いない。

「いつもは彼女から連絡が来るもんだから、つい……」

「なに甘えてんですか。まさか連絡は彼女任せってことはないですよね?」

「連絡する前に連絡が来るんだから、俺から連絡する必要性が……」

「もういいです。わかりました」

平嶋課長がビンタされてクズだのバカだの言われた理由が、よーくわかりました。

平嶋課長という男は、容姿と仕事は完璧だが、どうも恋愛に関してはダメ男のようだ。

私から言葉を切られたにもかかわらず、何が悪いのかわかっていないとぼけた顔。

それを見ていたら、ふと瑠衣ちゃんの言葉を思い出した。

瑠衣ちゃんの言っていた『きっかけ』とは、もしかしたらこのことかもしれない。

このチャンスを逃したら、もう平嶋課長と距離を縮めることなんてできないのではないか。

そう思った私は、一かバチか賭けに出ることにした。

「小っ恥ずかしいフラれかたをした平嶋課長に、一つ協力を要請します」

そう、あの瞬間を私が目撃したのには、きっとなにか意味があるはずなのだ。

「協力?」

怪訝な表情ではあるが私の言葉の先を促すということは、決して可能性はゼロではないはず。

このチャンスはものにするしかないだろう。

普段なら絶対に思いつかないが、自分だけではなく平嶋課長も私に恥を晒した。

そのことが私に大きな勇気をくれる。

「今日見たこと、聞いたことは他言しません。そのかわり……」

「……なんだよ」

「そのかわり、会社で噂になっている件、一切否定しないでください」

聡明な平嶋課長は、間違いなく私が何を言っているのか理解している。

自分の醜態と噂の肯定、どちらが自分にとってマイナスにならないかを考えてるに違いない。

「平嶋課長もなんとなく私の事情を察知してるとは思いますけど、私、社内恋愛してた彼氏を同期に寝取られて別れました」

「それは気付いてた。だから飲み会の時もあんなことになったんだろ?」

私よりも平嶋課長のほうが申し訳なさそうにそう言った。

「平嶋課長との噂が広がったことで、その同期は平嶋課長にいろんなことを言ってきたり仕掛けたりするかもしれません」

「そうなっても、久瀬との噂を否定するな、ということか」

「その通りです」

協力という名を使った取り引き。

しかもどっちを選んでも平嶋課長にとっては損にしかならない。

自分にのみ都合のいい話だとはわかっているが、これは神様がくれたチャンス。

どうしても掴んでおかなくてはならない。

「今のことを口外されるか、久瀬との噂を否定しないか。どちらかを選べと言ってるんだな?」

平嶋課長のその問いには答えず、課長の決断を祈るような気持ちで待った。

どれくらいの時間がたったのだろう。

数秒のような、数分のような。

時間の感覚が狂うくらい緊張した時間が流れ、平嶋課長は一つの決断をして私を見つめた。

「久瀬の条件をのもう。俺は今後、噂の件で何があっても関係を否定するようなことは言わない。約束する」

自分でパッと表情が明るくなったのが分かった。

そして私と平嶋課長は、お互いの恥を隠すため、協力するべく握手を交わした。


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