モブ令嬢の旦那様は主人公のライバルにもなれない当て馬だった件

獅東 諒

番外ルリア編 鬼姫と若人たちの休日

 あの後、アネットと確認した少年の事柄について、ルリアはオルドーに告げた。
 その話を聞いたオルドーは、アンドルクの面々に十分慎重に動くようにと指示を出し、それまで以上に周囲への警戒が強まることとなった。

 それからひと月ばかりが過ぎて、警戒を続けていたルリアたちは、周囲に不穏な動きがないことを確認しながら、久しぶりに屋敷を出て白竜神殿まで赴いていた。
 屋敷の中は安全であるかも知れないが、一月も籠もっていればさすがに気が滅入ってくる。
 あの少年の正体が知れない不気味さはあるものの、街に出たルリアたちを、影ながらにアンドルクの人員が見守っていることはルリアには知覚できた。
 正直、自分の身を守ることには絶対の自信があるが、夫であるロバートと客人でもあるトナムを守ることは、アネットが付き従っているとしても心許ない。
 トナムと並んで前方を歩いているアルドラも、護衛として及第といえる格闘技術を修めているようだが、相手が凶手暗殺者となれば実力不足だと云わざるを得ない。

「大丈夫ですかロバート」

 転びそうになったロバートを支えようとルリアが手を差し伸べる。動かなくなってしまった右足が石畳につかえたのだ。
 だがルリアが支える前に、彼は地に突いた杖に力を込めて何とか体勢を立て直すと、小さく息をついた。

「ああ、僅かずつでもいまのこの身体に慣れてゆかないとね。少なくとも行政館での内務仕事ができるくらいにはならないといけない。王国からの傷病手当もそろそろ打ち切られる頃合いだろう。それに今のままではルリア――君にばかり負担をかけることになる」

「ロバート……負担だなんて、私は貴男の全てを受け入れてここにいるのです。そのようによそよそしいことを言わないでください」

「いや、だがなルリア……。男として、どうしてもそれでは情けないと思ってしまうのだ」

 そのように言葉を交わしながら、二人は寄り添って見つめ合う。
 そんな二人の背後から冷静な言葉がかかった。

「お二方の仲が睦まじいことはとてもよろしいですが、往来でそのように見つめ合っていては周囲の熱が上がってしまいます。やっと暑さがおさまりかけているのに、ここだけ夏に戻ったようです。見てくださいお二人から発せられる暑さに、好奇の虫たちが引き寄せられているではないですか」

 相も変わらず男装のアネットが、やれやれといった感じで視線を周囲に流す。

「「あっ……」」

 アネットの冷静な言葉で顔を上げたルリアたちが、彼女の視線につられるように視線を走らせると、白竜神殿前広場では二人を取りまくようにして、多くの人が好奇の視線を向けていた。
 視線をこちらへと向ける人の中には、僅かであるものの、ルリアに身体を支えられて杖を突いているロバートをあざ笑っているような輩もいる。
 広場を見回せば、杖を突いている人は他にもいるが、それは年齢が原因である事はあきらかだった。
 マーリンエルトでもこのあたりの感覚は大差がないが、障害を負った人間を差別する意識を持つ者はどこにでもいるのだ。
 ルリアは幼い頃より、療養助婦である祖母エステラに付き従ってマーリンエルト内の療養所へと足を運ぶ機会が多かった。だからこそ、障害を得た人たちが望んでそうなったわけでは無いことをよく理解していた。
 だが、障害を得た人たちを蔑む人間の心を、簡単に変えることができない事もまた理解している。

 ロバートがそのことについてあまり気にしていないのが救いでしょうか? 自分に対してはとても厳しいのに、他人ひとに対しては妙におおらかですよね……まあ、そこが彼の好ましいところなのですけれど。

 ロバートはマーリンエルトの療養所にいたときから、機能回復のために歩行訓練を始めていた。
 しかし彼の右足は、戦場で怪我を負った時に癒やしの術を使える人間をすぐに手配できなかったこと、そして骨盤の右側を馬の蹄で複雑に砕かれたことが致命的だった。
 彼の右足はこの先どれだけ努力しようとも元通りになることはない。
 それでも懸命に機能回復に努めるロバートを見つめて、彼に向けられた蔑みの視線を振り払う。

 アナタたちに彼ほどの努力ができるかしら? 希望の見えない暗闇に向けて、それでも進み続けることが……。
 ましてや、王国の重鎮が彼の政敵なのだ。

「ルリア……眉間に皺が寄ってるよ。可愛い顔が台無しだ。楽しみにしていた君がそんな顔をしていては、僕も張り合いが無い」

 ちょん、と眉間を指で突かれて、ルリアは目の前にいる愛おしい人に視線を戻す。

「もう、ロバートったら――」

 幼い子供を諭すように微笑んでいる彼に、ルリアはプクリと頬を膨らませてから照れ隠しに言葉を続ける。

「――口調が戻ってますよ」

 それは、結婚を機に『俺』と言うようになった彼が、『僕』と言ったことに対してだった。
 ルリアはいま、エヴィデンシア家に嫁いでよりの望みであった、ロバートとの王都散策をしているのだ。
 ここは、あの事件の日に見てはいる。だが既に一度見た場所であっても、共に歩く相手が違えばまったく違って見えるものだ。
 あの日は、大陸最大の建築物だという己の知識を確認したというだけで、心揺さぶられるような事はなかった。しかし今、薄絹を引いたような雲がたなびく秋晴れの空の下、その隣に愛おしい人がいると思うだけで、巨大な白亜の神殿は荘厳な雰囲気を放って見えた。
 心の奥底から湧き上がる感動によってかブルリと身体が震えた。
 その震えを、穏やかだが冷気を僅かに忍ばせた秋風によるものと考えたのだろう、風を遮るようにロバートが身を動かした。
 その気遣いと隣に寄り添う彼の温かさに触れて、ルリアは……

 ああ……私は本当に彼の国に……オルトラントへと嫁いで来たのですね。

 今このときになって、はじめて愛おしい人の国にいるのだと実感できたのだった。
 それに、ロバートが思わず『僕』と口にしてしまうほど、私と共にあるこの時間が心やすらかだというのなら、周囲の反応に過敏になっている私の方が愚かかも知れませんね。

「ですからお二人とも、いま少し発散している暑気を冷ましてくださいまし……まあ、好奇の虫たちはあちらの暑気に誘われて散ってゆきましたが」

 二人の暑気に一人あてられ続けているアネットの呆れの乗った言葉に、彼女の視線を追ってゆくと、そこではひと組の男女が白竜神殿を眺めて何やら語り合って……いや、言い争っていた。

「……だから! 何でアタシがそんな建築学なんてモンを学ばなきゃぁならないんだい!」

「だから言っているだろ! 基礎だけでいいんだ。君には素晴らしい才能がある。それはこれまでの君の仕事を見ればハッキリとしている。 料理の中でも菓子作りは複合芸術だ。アルドラ。君は芸術には5つの分類がある事を知っているか? それは絵画であり、詩であり、音楽、彫刻、そして複合的にそれらの要素を持つ建築だ。その建築の分野に製菓が含まれると俺は考えている。君が菓子を本気で極めたいのなら、建築学を学ぶべきなんだ!」

 普段はボソボソと頼りなさげに話すトナムが、料理が絡むとあのように饒舌で頑固な調子になる事を、エヴィデンシア家の人間は既に周知していた。
 それに、トナムがアルドラに菓子作りの手ほどきをしているという話は、彼がエヴィデンシア家の客人となってより直ぐにルリアたちの耳に入っていた。

 そういえば……アルドラの作るお菓子を口にしたのはトナムさんがやって来てからですけれど、日に日にお菓子が立体的になっているような気が……。

 初めのうちは、マーリンエルトでもよく見られる材料を全て混ぜ合わせたものを焼き上げ、それにクレマクリームを添える形式のものが多かった。味は、これまで口にした菓子の中でも上位に入っていたが……。
 それが、昨夜の食後の茶菓デザートでは三種類の生地を組み合わせ、その間に果物を煮詰めたジムルジャムを合わせたクレマが塗られていた。
 見た目の美しさはもとより、甘みと酸味の濃淡、味わいの複雑さも加わって、これまで口にしたことのない斬新で美味なお菓子になっていた。
 それに考えてみると、トナムの料理……その盛り付けは、高さを出すことを意識しているようだった。

 その辺りが建築と関係しているのでしょうか?

「あっ、アタシは菓子作りは好きだけどさ、別に一流の菓子職人になりたいわけじゃぁ無いんだよ! アタシの大切な人たちの為に……そっ、それに、孤児院育ちのアタシが今更……」

 グッと詰め寄って熱く語りかけるトナムに、アルドラが瞳を泳がせて言いよどむ。彼よりも背の高い彼女が、圧倒されるように後じさっていた。
 アルドラの自分を卑下するような言葉に、一瞬唇の端を噛みしめたトナムは決心したように口を開く。

「俺は! 俺は捨て子だった……」

 そう口にしたトナムを、アルドラが目を見開いて見つめた。

「……食堂の店先に捨てられた俺は、運良くその店の親父さんやおかみさんに受け入れて貰えたんだ。……俺には料理しか無かった。拾ってくれた親父さんたちに恩を返すためにも懸命に仕事を覚えた。幸い、少しは才能もあったんだろう。俺の腕を見込んでくれた親父さんは、大衆食堂の職人で終わるには勿体ないと俺に、学ぶ機会を与えてくれたんだ!」

 トナムは力を込めてそこまで言ったが、何か嫌なことを思い出したように一瞬俯いた。だが直ぐに顔を上げて言葉を続ける。

「……人は裏切っても技術は裏切らない。技術さえあればどこでだってやっていける。それにもしも……もしもだ。君の大切な人たちが大変な目に遭ったとしても、君に技術があればその人たちを支えることだってできるんだ!!」

 そう言い切る彼の言葉には重い、とても重い実感がこもっているように感じられた。
 彼をはぐくんでくれたという人たちに何かあったのでしょうか?
 そんな疑問を浮かべるルリアを後目に、トナムはさらに捲し立てる。
 彼の勢いに完全に圧倒されてしまっているアルドラは、二の句も継げられずに背後にズリズリと下がっていく。

「アルドラ、君は字が読めるだろ。市民権があれば国営図書館への出入りはできるはずだし、君が仕えるエヴィデンシア家の方々はとても寛容だ。君が学びたいといえばきっと力を貸してくれるはずだ!」

「それくらいにしないかトナム君。アルドラも困っているだろ。……もちろん彼女が望むならば力になる。確かに立場というモノはあるが、私は我が家の使用人たちは家族のようなものだと考えているからね」

 広場の中に建てられている記念碑のひとつに、追い詰められるように背を付いたアルドラを見かねて、ロバートがそう声をかけた。彼のその言葉には少しばかり呆れたような響きがある。

「……もっ、申し訳ございません!」

 ロバートに声をかけられて我に返ったトナムは、先ほどまでの勢いはどこへやら、非常に恐縮した様子になってしまった。
 先ほどまでの力強いシャッキリとした姿勢も、普段の少し猫背で俯き気味に戻っている。
 とても、普段は強気なアルドラを、その勢いで追い詰めていた男とは思えない。

「……まあ、その……アンタの言ってることもさ、少しは分かるような気もするよ……」

 追い詰められた記念碑から背を離して、居住まいを正しながらアルドラがそう言うと、トナムが、それは嬉しそうに顔を上げた。

「でっ、でもね! 別にその気になったって訳じゃ無いからね!」

 アルドラはトナムと視線が合った途端、グッとトナムを睨めるけるようにしてそう言い捨てた。

「あんなに顔を赤くして――まあ確かに、いつもの言い合いでは良い勝負ですのに、今日は完全に圧倒されてましたものね。喧嘩相手のトナムさんに、あんな姿を晒して、アルドラはよっぽど恥ずかしかったのでしょうね」

 ルリアがアルドラの様子にそう言葉を漏らすと、「あの二人……意外にお似合いかも知れませんね」と、アネットが薄い微笑みを浮かべていた。

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