モブ令嬢の旦那様は主人公のライバルにもなれない当て馬だった件

獅東 諒

第五章 モブ令嬢と地の妖精と真実と

 突然、私の周りを包んだ闇……、私はこの闇に呑み込まれる直前の記憶を思い起こします。
 その正体が金竜王シュガール様であったトルテ先生……。
 彼を邪竜との戦いに送り出す前に、私が親愛の抱擁をしようとしたときでした。
 私たちの文化では、家族以外の方とは早々抱擁することはございません。ですが先生は、たとえ金竜王様であったとしても……私にとっては、お祖父様が亡くなり、アンドルクの方々が館を去った後、暗く彩りを失った我が家を照らし出してくれた、とても大切な方なのです。
 直前に旦那様より許可を頂いて、私が足を踏み出した瞬間の事でした。
 目を見開いた先生の顔……そうしてあれは、地に沈もうとする私を掴もうとして、それが間に合わなかった旦那様の手だったでしょうか?
 それが、闇に沈む私の瞳に映った最後の光景でした。

 私は瞳に残った旦那様の手に、自分の手を伸ばそうといたします。
 ですが、彼を求めて伸ばす手は……重く……粘つくような泥水の中にでもいるようで、のろのろとしか動きません。
 この感じ……以前まったく同じ感覚を味わったことがございます。
 ここは……やはり……
 地の精霊たちの住まう領域……?

 旦那様がバジリスクの毒に倒れたあの茶会の後、意識を失った私が訪れた場所。
 ……ですが、あの時には私の意識だけがこの地を訪れたのです。
 いまこの場に居る私は……間違いなくその身を持った人間であるはずです。
 旦那様! シュクル! 先生!
 私はそう叫びました。ですがその叫びは、響きを持って口から出ることはありません。
 ……あの時は、僅かに感じた旦那様の存在を求めて足を踏み出しました。
 ですが今は、外界との接触を全て閉ざされてしまったような……

「……姫様……」

 背後から、どこか怯えを含んだ声が私の耳を打ちました。
 私は、身体を動かすだけで圧力を受ける、泥水が満ちているようなこの空間の中、懸命に声の響いた方向へと身体を向けます。
 闇が満ちるこの空間で……そこだけが……その場所だけが……私の瞳にボウッと浮かび上がるように像を捉えさせました。
 それは、決して光が差したような明るいものではなく、クルークの試練、あの洞窟の中にもあった、苔が放っていた光のような……そんな淡い光。
 その光を受けて、彼はその場所に立っていました。

「……姫様……もう安全だよ。ボクたちが姫様を危険から守るから……だからボクたちと一緒にいてよ……」

「ノームさん……」

 そこに居たのは幼いノームさんです。
 彼が現れたからでしょうか? 先ほどまでは音にならなかった言葉も、いまはすんなりと口から出ました。
 淡い光によって、浮き出しているように私の前に立つ彼は、いつものようなどこか余裕を感じさせる表情ではなく、怯えたような、それでいて悲愴そうな表情をその顔に貼り付けていました。
 私が、この場所に捕らわれたとき、響いたあの叫び。
 まるで自分のお気に入りを取られまいと、癇癪を起こした子供のような……。
 ですが、その言葉に私は……自分でもまさかと思える結論を得ました。
 ただ……彼が何故、このような行動に出たのか……。
 もしかして、私と先生の仲を誤解しているのでしょうか?
 先生が、彼が大嫌いな金竜王であると知って、私を取られまいと暴走してしまったのでしょうか?

「ここなら大丈夫。きっと大丈夫だから。……奴の放つ危険なモノはきっとここには届かない……だから……」

 ノームさんは、必死に私に訴えかけます。

「止めましょう……もう止めましょう……今はそのようなときでは無いはずです。……竜王様方も、旦那様もシュクルも、私の友人たち、アンドゥーラ先生、さらに多くの方々が、今――このとき戦っているのです。……この世界の趨勢を決めるかも知れないときなのです。だから、ノームさん……いえ、地の精霊王ノルム様! 私を皆の元に帰して下さい!!」

 その私の叫びに、彼は驚き――そして目を見開きました。
 そうして……彼はそれまで纏っていた子供っぽい雰囲気を投げ捨てます。
 ですが表情の悲愴さはさらに増すばかりで、どこか危険な執着のようなモノがその瞳に瞬きました。

「……ああっ、君はやっぱり……なんて賢い子なんだろう。たったあれだけの遣り取りの中から……ボクの正体を導き出すなんて……あの粗忽な竜王には勿体ない……」

「クッ、ああっ……身体が……」

 私の周りを包み込んでいる空間の圧力が上がり、私は完全に身動きが取れなくなってしまいます。
 そんな私に、ノルム様はひたひたと近付いてまいりました。

「大丈夫、ボクが君だけは絶対に守ってあげるから……」

 身動きが取れなくなっている私の手を、彼はそっと取ろうといたしました。その瞬間……

『この、うつけ者めが!! 時を与えた我の配慮も顧みず、己の欲に呑まれるとは!! ノルムよ、世界の調和を保つ精霊王としての責務を忘れたか!!』

 と、クルーク様の怒声がこの空間を震わせました。
 私の手を取ろうとしていたノルム様がビクリと身体を竦めて固まります。
 そしてその怒声と共に、私を縛っていた空間の圧力が無くなり、ノルム様が取ろうとした私の手を別の誰かが掴みました。その手は大きく、ゴツゴツとした力強いもの、そうしてもう一つ、細く小さい手です。

「旦那様!? シュクル!?」

 突然私の手を取ったのは、旦那様とシュクルでした。でも、どうやって二人はここに?
 そんな私の疑問をよそに、左右から私の手を取った旦那様とシュクルは、ノルム様から私を守るように抱きしめました。

「フローラはアナタの物でも金竜王のものでも無い! フローラは私の愛する妻であり、そしてこのシュクルの母だ!!」

「なの!!」

 旦那様とシュクルの声がこの空間に大きく響き渡ります。
 クルーク様の一喝を受けて固まっていたノルム様は、少ししてその硬直が解けたのでしょう、ゆっくりと、私の手を取り損ねたご自身の手と、旦那様とシュクルがしっかりと握った私の手を見比べます。
 ……私と同じ色のノルム様の茶色い瞳から、ポロリと涙がこぼれ落ちました。

「ボクたちは……どんなに人を愛おしく想っても、結局見守ることしかできないんだね……」

 その言葉は、とても悲しく響きます……。

『今更、そのような事を……それに、その娘はお主の愛し子では無いではないか。あの粗忽者が、過去の失敗によって、お主に対して弱みを抱えているのをいいことに、彼奴の愛し子を隠してみせた。初めは金竜王への嫌がらせであったのであろう? だがお主はフローラに魅せられ、捕らえたはずの娘に囚われた。……だがいい加減彼女を解放するのだ。邪竜の力は五〇〇年前を遙かに超えている。フローラが解放され、本来の力を行使できれば今よりも遙かに強い力となる!』

 ……え?
 クルーク様の今の言葉……まさか……、それが本当であるのなら……いえ、でもそうであれば、様々な事柄がひとつに繋がります。
 そんな……まさか私が先生の……

「フッ、フローラ!?」

「ママ!? 髪が……」

 旦那様とシュクルが私を見て驚きの声を上げました。
 ノルム様は私から目を逸らすようにして、どこか苦しそうにご自分の胸を押さえます。

「ああ……気付いてしまったんだね。君が気付いてしまったら、もうボクの隠しの力は及ばない……」

 ああ……自分でも分かります。
 自覚した途端、私の視界に見える髪の色が茶色から金色へと変じて行きます。

「私が……私が、トルテ先生の捜し者だったのですね……」

「フローラが金竜の愛し子……」

「……ママがキラキラなの……」

 自分では確認できませんが、きっと瞳も金色に変じているのでしょう、旦那様もシュクルもどこか眩しそうに私を見ています。
 それに……クルーク様が仰っていたように、自分でも魔力の総量が上がったのが自覚できました。まるで、それまで押さえつけられていたモノが全て無くなったような、そんな爽快感すら感じます。

『ノルムよ……せめて自分の手でフローラたちを地上へと戻しなさい。さすれば、お主がこれより長いこと抱えることになるであろうその心の痛みを懲罰として、我も怒りを収めよう……』

「分かったよクルーク……。フローラ、ボクは君のことが本当に大好きだったんだ……こんなことを仕出かしてしまったくらい。でも君は人間で……本当はボクの天敵であるシュガールの愛し子だ……」

 ノルム様はそこで言葉を切ると、私を抱き寄せている旦那様へと視線を移しました。

「グラードル……このような事を仕出かしたボクが言うことではないかもしれない。ボクには邪竜を倒す力は無い。地の底を逃げ回るだけしかできない。だから……勇敢にも邪竜と対峙しようという彼女を……フローラの身をきっと、きっと守ってほしい……」

 そう懇願なさるノルム様の姿を、旦那様は黒灰色の瞳に優しい光を湛えて見つめます。

「アナタに言われるまでもありませんよ。私にとって、フローラは自分の命よりも大切な存在なのですから……」

 その旦那様の答えは、ノルム様の言葉を受けてのものでした。
 決して、追い詰められ覚悟を決めて出たような言葉ではありません。
 ですが私には、命という軽々しく使うべきではない言葉を旦那様が口にしたことに、妙な不安を掻き立てられてしまいます。
 そんな胸の奥から浮かび上がってきた不安を口にしたら、その不安が現実のものになってしまうような気がして、私は、旦那様に言葉を掛けることができませんでした。
 そのような私の逡巡を知り得る訳もなく、ノルム様の力によって、私たちは地上へと戻されたのです。





 旦那様とシュクルが突然私の元に現れたのには原因がございました。
 冥界を統べるクルーク様は、私たちの所で起こった事態にいち早く気付いたそうです。
 ですが邪竜との戦いより離れることが出来ず、クルーク様はそのお力を使って旦那様とシュクルをあの空間へと送ってくださいました。
 そして、娘であるシュクルを中継することによって、クルーク様はあの場に言葉を届けていたのだそうです。
 つまりクルーク様は戦いのさなかに、あれだけのことをなさっていたのでした。
 ノルム様に私たちの送還を託したのは、あの方が心を正したことの確認でもあったのでしょうが、それ以上力を割けないという事もあったのかも知れません。

 ノルム様の力によって地上へと戻った私たちは、その後目の前に広がる光景を目にして驚愕することとなってしまいました。
 私は……ノルム様に囚われていたのは僅かな時間であったと思っていたのです。
 ですが、地上へと戻された私たちが目にしたのは、遠くに見える地平線に、赤味を帯びた光を湛えた太陽が沈んでいこうとしている光景です。
 そうして……

「そんな……!?」

「俺たちがいない間に何が!?」

はは様……とと様……」

 私たちの眼前には、その身体に深い傷を負って地に伏せておられる竜王様方の姿があったのです。

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