モブ令嬢の旦那様は主人公のライバルにもなれない当て馬だった件

獅東 諒

第四章 モブ令嬢の願い事(前)

 明け方……、温かい……まるで春の日差しのように優しいぬくもりに包まれて、私は微睡みから目覚めます。

「…………旦那様?」

 目を開きますと、旦那様が上体を起こした体勢で、優しい眼差しを私に向けておりました。

「あっ、あの……旦那様?」

 旦那様はいったいいつから、このように私を見つめていたのでしょうか?
 あの優しいぬくもりは……旦那様の、この私を包み込むような眼差しのおかげだったのでしょうか?
 旦那様が目覚めるまでの二日の間、私はほとんど寝付くことができませんでした。僅かに微睡んではハッと覚醒して、旦那様の呼吸を確認する。そんな時を過ごしておりました。
 旦那様が目を覚まされたあとは、エヴィデンシア伯爵の夫人として、気を張り詰めておりました。
 しかし、昨晩……思いも掛けず訪れた、アンドゥーラ先生を初めとする方々のおかげで、これから旦那様に訪れるという症状を、緩和する術と容態を見極める目安を得ることが叶いました。
 そんなことがあったからでしょうか、あの後私は旦那様の隣で床に就き、息つく間のなく眠りの淵へと落ち込んでしまったようなのです。
 旦那様は、まるで透き通った朝の空気のようにただただ自然体で、そのまま空気の中へと溶け入ってしまうのではないかと思えるほどです。
 私はその溢れ上がってきた思いに不安を感じてしまいました。

「……旦那様」

 私は手を伸ばして旦那様の夜着の袖口を掴みます。

「おはよう……フローラ」

 旦那様は、優しく微笑んでそう仰いました。
 その声を聞いて、彼が確かにここに存在して居るのだと……薄らと瞳に涙が滲みます。
 安心したからでしょうか、旦那様の視線に恥ずかしさを覚えて、私は毛布を顔の上に引き上げてしまいました。

「旦那様……そのようにジッと見られたら、恥ずかしいです……」

 私は、毛布から目の上だけを出した状態でそのように訴えました。
 静かに私を見つめる旦那様が「クッ!」と僅かに胸元を押さえます。

「だっ、旦那様!?」

 まさか、お身体の具合が! 私が身体を起こそうといたしますと、旦那様が胸を押さえるのと逆の手で私を制しました。

「大丈夫……『フローラのカワイイに当たっただけだから』」

 旦那様は、恥ずかしそうに途中から日本語でそう仰いましたが……旦那様、私――もうその意味が分かってしまいますので……私は、熱を持った顔を、毛布で完全に隠してしまいました。

 しばらくの間恥ずかしさで顔が出せずにおりますと「そういえば、この腕輪は? 目が覚めて気が付いたんだが、眠りついてしまう前には付けてなかったよね」、と仰いました。

 私は、毛布を戻して身体を起こします。

「それは、旦那様の治療のための器具のような物だそうです。アンドゥーラ先生とサレア様が作って下さいました。陛下からのご依頼だそうで、アンドゥーラ先生が『今回の件の報償のひとつだと思ってうけとっておきなさい』と仰っておりました」

 旦那様がご自分の容態を何処までご理解なされておられるのか判りませんので、私はそのように無難な返事をいたしました。

「それでか……昨日よりだいぶ身体の調子が良い。これなら今朝からでも出仕できそうだ」

 旦那様が腕をぐるぐると回し、軽く上半身を捻って身体の動きを確かめます。

「お待ちください旦那様! お目覚めになって昨日の今日です。出仕するのはあまりにも無茶でございます!」

 私は、今にもベッドから降りようとしそうな旦那様を、押しとどめるようにしてその身体にしがみつきました。

「だが……俺が健在であることを早いうちに示しておかないと、どのような噂話が社交界で持ち上がるか……」

 旦那様が、少し困ったようなご様子でそう仰います。
 昨夜はお父様に問われて、そうではないかと答えましたが……やはり、旦那様はそのような事をお考えだったのですね。

「噂話などいくらでもさせておけば良いのです! 旦那様が毒を受けたということは、いずれあの場におられた方々より広まるでしょう。ならば体調を万全にして出仕なされた方が、旦那様が健在であることを周りに示せるのではないですか?」

 私は旦那様から身体を離して、優しい光を湛えて私を捉える彼の瞳を見つめます……。
 しばしの間、旦那様と私の間で無言の思いが交わされました。
 ふぅっ、と旦那様から力が抜けます。

「そうだったね……君は時折、このようにとても頑固になるんだった。判ったよフローラ……君の言うとおりにするよ」

「……旦那様……なんだかそれでは、私がとんだ頑固者のように思えるのですが……」

 いえ、まあ、私自身そのような気がしなくもないのですが、旦那様から直接言われてしまうのは、やはり妻として恥ずかしいと申しましょうか。
 ですが、旦那様が無理を押して出仕なされることは、押しとどめることができましたので、あえて汚名は受け入れます。





「それでグラードル卿は、軍務部へ出仕しようとしたのかい?」

 学園への道すがら、アルメリアが、隣を歩く私に視線を向けます。

「はい……。体調が良いのに休むことはできないと仰って。なんとか思いとどまって頂きました」

「…………ふーん、まさかタイチョウフリョウヲオシテシュッシトハ……Sダトオモッテイタガ、Mダッタノカ!?――いや、スグレタSハ、Mゾクセイモモッテイルトイウシ…………」

 私の言葉を受けた、アルメリアが「まさか」とか「いや」とか言いながら考え込んでしまいました。何を考えているのでしょう? 旦那様の体調を心配してくれているのでしょうか?
 私がそのようなことを考えておりましたら、お付きの二人と共に前を歩いていたマリーズが私に振り返りました。

「フローラ、大丈夫ですよ、いつもの病気のようですから」

「ええっ! アルメリアは何かやまいを患っているのですか!?」

 マリーズは器用に後ろ向きで歩きながら、頬に手を当てて軽く首を傾けます。彼女は少しいたずらじみたように見える微笑みを浮かべて口を開きました。

「ええ、まあ……不治の病のような物ですが、アルメリアの場合、生き死にの問題は無いようですので、心配の必要はあまりないかと。彼女がこのような状態になっても、しばらくすれば元に戻りますから」

「はあ……」

 要領の得ない説明ですが、私、マリーズより長い付き合いですのに、アルメリアの病に気付いておりませんでした。マリーズは、聖女としてどこか感じるところがあったのでしょうか?
 私も、もう少し気をつけてアルメリアのことを見ていた方が良いのでしょうか? ですが今の私は旦那様のことで一杯一杯ですし……マリーズが心配の必要が無いと言うのならば、今はその言葉を信じさせて頂きましょう。

 ところで、いま私たちは、六人で学園に向かっております。
 マリーズのお供の二人は、マリーズを学園に送り届けた後、さらに先にある神殿へと向かいます。
 リュートさんが白一点、一緒に歩いておられますが、彼は女性同士の会話に入る事ができずに少し離れております。ただ、この辺りの方は見慣れたと思うのですが、時折、白竜の愛し子である彼に驚いた人たちに、まじまじと眺められたり、指をさされて何やら呟かれております。

 ちなみに、クラウス様、レオパルド様、レガリア様は馬車で登園なさっております。
 六人乗りの馬車ですので、クラウス様はマリーズを一緒に乗せたがっておりましたが、護衛の騎士が一名乗り込みますので、乗れるのはあと二名です。彼女は供の二人と離れるわけには行かないと固辞して私たちと今まで通りの登園です。

 捜査局の方で付けて下さっているという、護衛の方の苦労が忍ばれます。
 ですが館に関しましては、クラウス様のおかげで、騎士団よりの護衛が付いてくださったので以前よりは楽になったのではないでしょうか。
 私がそのような事を考えておりましたら、大通りの高級店街を抜けて、法務部行政館の前の辺りまで来ておりました。
 ふと前方を見ますと、学園の門の辺りに知った顔を見つけます。

「レオンさん――どうなされたのですか?」

 声を掛けるのとほぼ時を同じくして、レオンさんは私を見つけたらしく、足早に近付いてまいりました。

「ああ奥方……いや、何やら王家の茶会で事件があったと聞いたのですが……それに、グラードル卿が傷を負われたとか……昨日も出仕なされませんでしたので心配していたのです。ここに居れば奥方に会えると思いまして」

 レオンさんが、憂うような表情を浮かべてそのように仰いました。

「まあ、旦那様の事を心配してくださっていたのですね。その――詳しくは申せませんが、旦那様が傷を受けたのは本当のことです。ですが重症ではございませんので安心してください。ただ、今週中は休養を頂く事になると思います」

 王家の茶会での事件は、バレンシオ伯爵による陛下暗殺未遂事件として処理されることとなったようですが、ローデリヒ様があのようなお姿になったことに対しては、公言が固く禁じられました。
 ですので、いまのところ言葉を濁しておいた方が良いでしょう。

「……そうですか。隊の連中も心配していましたので、そのように伝えておきます。……ああ、あと、グラードル卿が転属になるかも知れないとの噂を聞きつけたのですが……奥方は何か耳にしておりませんか?」

「……いいえ、そのような事は何も……」

 この質問に対しては、本当に私は何も存じ上げません。
 以前に、ライオット様が捜査局に移る気がないかと仰っておりましたが、その話でしょうか?
 しかし、その話は捜査局の局長室の中で、ライオット様が思いつきのように仰ったことですし、外部に伝わるような話ではなかったはずです。

「……ならば良いのです。正直なところ、グラードル卿配下の俺たちは、結構あの方を気に入ってましてね。あの方の配下としてこれからも務めたいんですよ。転属ともなれば、なかなか俺たちのような歩兵は上官について行くことは叶わないので……まあ、奥方が知らないということは、本当に噂話だったのでしょう。奥方。時間を取らせて申し訳ございませんでした」

 そのように仰って、レオンさんは軍務部の方へと去って行かれました。

二月ふたつき前までは、隊の鼻つまみ者として扱われていたのに、グラードル卿はいつの間にか周りに認められていたんだね……」

 いつの間にか思考の淵から戻ってきていたアルメリアが、どこか感慨深そうです。
 レオンさんは、比較的早いうちから旦那様の事を認めてくださっておりましたが、他の方々も今の彼を受け入れてくださっているようで、私も一安心です。
 特に、これからの旦那様の事を考えますと、彼のことを少しでも、心に懸けてくださる方々が近くにいれば、私も心強く思えます。
 学園の前でそのような会話があったあと、私たちは高等部の学舎へと向かいました。

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