モブ令嬢の旦那様は主人公のライバルにもなれない当て馬だった件

獅東 諒

第二章 モブ令嬢と旦那様の長い夜(前)

 ルブレン家のお茶会から戻りますと旦那様は、少し考えたいことがあるからと仰って、書斎へと籠ってしまいました。
 私も、旦那様が書斎に籠ってしまわれたときのお決まりとなってしまっております行動。控え帳を手にドアへと張り付いてしまいます。
 既にいつものことなのではありますが、我ながらなんとはしたないことをしているのだろうと、羞恥心が湧き上がります。こればかりは何度経験しても慣れるものではございません。

 私が、そんな煩悶を抱えておりますと、部屋のドアが音もなくスーっと開き、メアリーが入ってきました。
 メアリーは、既に規定行動のようにやってまいります。
 許可はいたしましたが……お願いですから、いま少し遠慮がましい様子を見せてほしいものです。
 諦めにもにたため息を静かに吐き出して、ドアに耳を付けますと、部屋の中からは、やはりいつもの通り旦那様の不思議な響きの言葉が聞こえます。

「『……レンブラント伯爵――最後の言葉の意味、ちゃんと分かってくれたよね!? ウチは財務卿の選定には関与しないよって言ったの。バレンシオ伯爵に対してはエヴィデンシア家としてはハッキリとした恨みはあるけど、レンブラント伯爵はあの当時まだ少年だったはずなんだから、関わりなんかあるわけないんだし、ゲームにはあの人、関係してないみたいだから下手に、スズメバチの巣を突くような真似したくないよ――俺』」

 部屋の中からは、レンブラント伯爵やバレンシオ伯爵の名前が聞こえました。やはり旦那様は、彼らのことが気に掛かるのでしょう。
 ルブレン家での旦那様の言葉を聞く限り、旦那様はレンブラント伯爵には関わりたくないご様子でした。
 最後に、ご自分がエヴィデンシア家の人間であると仰っておられましたから。
 問題は、レンブラント伯爵がどのようにバレンシオ伯爵と関わっておられるかです。
 法務部のライオット様のお言葉を振り返ってみますと、現在のバレンシオ伯爵の悪事に手を貸しておられる可能性が高うございます。しかし、おそらく現状では憶測の域を出ておられないはずです……ですが法務卿たちは、レンブラント伯爵への警戒感の方が高かったように思われます。

『父上も頭が痛いことだろうな。あの場に居た支持者たちはレンブラント伯爵に顔を覚えられただろうし、きっと切り崩しの工作が始まるだろう、財務卿の選定は貴族院の上位貴族の票をどれだけ押さえられるかになりそうだな……』

 こちらは普通の言葉での独り言でした。
 たしかに、下位貴族の票は数を集めないと力になりませんが、本日あの場に出席なされていた人数を考えますと、そう馬鹿にできるものでもございませんでした。ただ、あのレンブラント伯爵の静かな威圧を受けて、そのままルブレン侯爵への支持を貫くことができるのか……難しいところもあるかも知れません。それに旦那様も仰っているように、切り崩しなどはきっとあることでしょう。

「奥様、レンブラントとは――まさか、レンブラント伯爵が、ルブレン家の茶会へ現れたのですか!?」

 メアリーが静かに声を上げました。彼女の薄い表情が珍しく驚きを表します。
 私は、軽く頷きました。

「子細は、いずれ話します。今は、こちらに集中いたしましょう」

 メアリーは小さくうなずいて、書記を再開いたしました。

「『しかし、兄上ってあそこまで軽率だったか? ここ二年の動向が分からないけど、俺に当たりがキツかった以外はあそこまで酷くなかったはずだぞ……。俺としては一番不味かったのはカサンドラ義姉上だけど。あの人、何があったの!? あの艶やかで美しかった義姉上が……ここ二年で一体何が!? あと、子供まで生まれてるし……。フローラ……間違いなく不審に思ったよね。……俺の記憶が一部無い事に気が付いたかな? 流石に前世の意識が甦ったなんて事は想像できないと思うけどさ』」

 カサンドラお義姉様のお名前が聞こえました。
 ……前回、法務卿のお茶会で、私はレガリア様という心強いお味方を得ることができました。そして今回のお茶会では、お義姉様――カサンドラ様という力強いお味方を身内に得ることが叶いました。そのどちらも偶然のようなものではございますが有り難い事です。

 しかし、今回のお茶会において私が最も気になりましたのは、旦那様がお義姉様と話していた折りに、お子様が生まれたことをご存じなかった時の、あの動揺したご様子です。
 お子が生まれるまでの期間はおよそ十月とつきほどです。人によりましてはお腹が目立たない方もおられますので、それだけでしたら怪我による記憶の混濁ということも考えられます。しかしお義姉様がお太りになられたのは、話のご様子ですと少なくとも五ヶ月以上前であったはず……。
 それに思い返してみますと、法務卿のお茶会にて、レガリア様が旦那様の罪を許すと仰ったときの旦那様のご様子も、今回のようにおかしくなかったでしょうか。

 今回のお茶会の折にも少し頭に浮かびましたが、旦那様は、一年とか二年という、少なくない期間の記憶を無くしておられるのではないでしょうか? でなければ、あの動揺の説明が付きません。
 ……しかし、それだけでしょうか? もしその期間の記憶を失ったとしたら、その時間が無かったように行動なさるのではないでしょうか? 
 三ヶ月の療養の間、考える時間があったとしても……それに、そうだとしましたら、戦傷を負ったことによって考え方が変わったという言葉にも、何やら齟齬があるように感じられます。
 そうです、アルメリアの事を知っていらっしゃることも……。
 扉を開けるための重要な鍵が見付からないようなもどかしさが、私の胸を満たします。

 頭の中に、あの無茶な総当たりをなされた朝の、過去をお悔やみになったお顔。レガリア様に声を掛けられたときの旦那様のこわばった表情。カサンドラ様の言葉に血の気を失ったお顔が浮かびます。
 時折、彼がみせる苦悩のお顔。あのお顔を拝見するたびに私の心は千々に乱れます。その苦しみをわかり合えないもどかしさに……。
 アルメリアから貸していただいた本の中に、人は時に、ただ一日で数年の愛に勝る愛情を相手に感じることがあるのだと書いてございました。
 私は、あの婚姻の儀の一日で、我が身をもってそのようなことが本当にあるのだと確信いたしました。
 そして、私の旦那様への思いは、日一日といや増すばかりでございます。

「『とりあえず俺のことはいい。やっぱり、ウチの場合はバレンシオ伯爵がどう出るかなんだよな。今のところは、でも……向こうに動かれてからじゃ遅いかも知れないし……くぁぁぁぁぁぁーーーーッ! 悩ましい!』」

 不思議な響きの言葉の中にまたバレンシオ伯爵の名前が出ました。そして、何かを訴えるような苦悶の声が響きます。
 その苦悶の声を聞いたとき、私は身を焦がすような焦燥感に駆られて居ても立っても居られなくなってしまいました。

「『……あれ? ちょっと待てよ……俺、自分の都合の良いように考えてたかも知れない……、リュート君やマリーズがウチに居る状況って、実は不味くない?』 おわッ!!」

「奥様ッ!」

  私の行動に驚いたメアリーが止めようといたしますが、それよりも早く、私は書斎のドアを拳の背で打っておりました。

「旦那様、申し訳ございません。お話ししたいことがございます!」

 そう言ってから、私は、隣のメアリーに小さく「下がっていてください。旦那様と大切な話がございます」と、言い渡しました。
 私の決意の顔を見たメアリーは、軽く黙礼して音も立てずに部屋から出て行きました。

「フローラ――なんだい? いま、考え事をしているのだが……」

「大事な話なのです。……お願いいたします、旦那様」

 書斎の中で、旦那様が椅子から立ち上がったらしき物音が聞こえました。
 少しの間があって、カチャリ――と鍵を開ける音がして、扉が開きます。

「フローラ、どうしたんだ突然」

 そう言いながら、旦那様は私を促して居室へと入ってまいりました。怪訝なお顔で、彼は私を見ております。
 あたり前ですね。私も、旦那様が突然このような行動を起こしたら、何事でしょうかと身構えてしまいます。

「旦那様……私、旦那様に謝罪しなければならないことがございます……」

 私は、旦那様の暖かい光が灯る黒い瞳を、まっすぐに見つめます。

「私これまで、このように旦那様が書斎にお籠りの折りに、忍んで聞き耳を立てておりました。申し訳ございません」

「……フローラ、何故そんなことを……」

 旦那様の表情が驚きに染まりました。

「私……旦那様を愛しております。婚姻の儀より未だ一月にも満たない……それだけの時を共に過ごしただけの小娘が、何を言うのだとお思いかも知れません。……しかし私は、この心に宿った思いを、愛以外のものであるなどと誰にも否定させません。それは、たとえ旦那様であってもです……旦那様。……旦那様は私を信用できませんか?」

「なっ……本当にどうしたんだ――突然。フローラ?」

 私の突然の告白に、旦那様はどこかオロオロとして、その瞳も揺らぎます。
 胸の奥から、衝動が突き上げてきます。それは留めようもなく湧き上がり、私の口から溢れだしてしまいました。

「婚姻の儀の夜、旦那様は私の頬に手を当て仰いました。『いつか私には話せると思う』と、それは今でも変わりございませんか? 旦那様が何やら秘密を抱えておられるのは、あのときから僅かに感じておりました。それに、私もはじめは、旦那様のお心にまかせるつもりでございました。しかし、レガリア様とのお話の折や、今回のカサンドラお義姉様とのお話の時の旦那様の様子を見るに付け私は……私は、何故旦那様とその苦しみを共有できないのかと……」

 私は留めなく胸の内から溢れてくる思いに胸を突かれて、最後まで言い切ることができませんでした。
 私の両の目からは、止め処もなく涙が溢れてしまっております。この涙は悲しさなのか悔しさなのか私には判別がつきません。
 私の必死の問いかけに、旦那様は息を呑んでおります。
 しかし彼の瞳には、怯えの色が強く浮き上がっておりました。

「フッ、フローラ!? 何を……!?」

 旦那様がそう言って、私から視線を外しました。
 それは、私が夜着の帯を解き、それを脱ぎ落として、旦那様に己の全裸を晒したからです。

「旦那様、見てくださいまし! 私は旦那様にこうして全てを晒すことができます! 心も! 身体も! それでも旦那様は私を信じていただけませんか?」

 旦那様は私の全霊の告白に、驚愕の表情を浮かべると、一度大きく天を向き、片手で顔を覆いました。
 ……そして手を放し、そのお顔を私に向けますと――優しく微笑んでくださいます。

「フローラ……本当に、君っては……おっとりしてるかと思えば、とてつもなく頑固なところがあるんだね」

「あ、あの……お嫌いになりましたか……」

「いや、さらに惚れ直した。君は最高の嫁さんだよ」

 そう言うと旦那様は、私の頬に手を添えて、静かに涙を拭ってくださいました。

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