素直と意趣返し

鼠雨

窮屈

一人の世界というのはなんとも残念なものである。二人の世界というのは不可思議なものである。その他大勢の世界とは強い願いなどないのである。

 唯一あるとすればそれは救われたいという漠然とした願いでもない物だけ。しかしそれも大きな波に飲み込まれてしまうのみだ。そうして流されて流れ、生きて生きて。そうして果てまで来てようやく振り返る。そうして思うのだ。嗚呼なんとない人生だった、と。

 これで良いのだろうか私の人生は、人生と呼んでも良いのだろうか。満足なんかできなくてもせめて妥協でもしたかった。でもそれでも望んだものを拝むこともできないのだろう。

 そんな気がして前を向くとしかしこれが果てではなかった、大きな扉。これまで相対してきたあらゆるものより大きくそして威厳に満ち溢れていた。

 これを越えねばならぬのか。ならばもうこの流れに任せて消え失せよう。そう思って最後に扉を視界に収める。

 そうするとどうだろうさっきまでのやるせなさが嘘の様に私は焚き付けられ。まるで今まで我慢していたものが爆発したかの様に私は自分でも驚くぐらい一生懸命に扉を目指していた。人の群れなど一切無視して。


 開け!!


 私の呼びかけに呼応するかの様に扉から光が漏れる。その光が強すぎて私の視界が白に塗りつぶされる。そこに嫌な気は一切なくまるで希望に満ち溢れているのである。


 笑えるだろう、なんの確証もないのに自分が天国にでも行ける気分になっていやがる。一度冷静に考えて見ればそりゃそうだ、私が特別だなんてあるはずがない。今の現代のシステマチックな日常の副産物、産業廃棄物、それが私だ。そんな私が自分の望んだ世界に行けるなんて都合の良い話、小説にだってありゃしない。


 そんな簡単なことに私は見ず知らずの世界に放り出されてようやく思い知った。


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 一生を会社員で過ごし、学生時代も大して活動的ではなかった私にはこの岩肌が剥き出しの荒野は数時間で歩くことさえ辛くなってきた。

 曇りだというのに全く消え失せることのない太陽の気配がプレッシャーを私にかける。果てまで続くこの凸凹道に私の足首は経験したことのない痛みに襲われている。

「大学の時一度だけ行った登山なんかとは比べものにならないな。」

 延々と限りなく続く荒野はやはりそれだけで精神に支障をきたす様で大きな石を見つけた私はその影にまるで眠る金魚の様に隠れたりしていた。 

 この世界に放り込まれた時は非現実的な出来事に多少どぎまぎしたもののしかしそんな時間が膨大に流れればそれは私の生前と大して変わらない。

 どうせこの風景もいずれは日常となり私は絶望することさえなくなるのだ。そう思えばこの状況も幾分マシに感じるが、しかし絶望的でしょうがない現状を私の腹時計と喉が訴え掛けてくる。

 拝むのが二度目になるこの世界の太陽が空の頂点にあると感じられる、私はそれほど物も液も喉を通っていない。

 そんな極限状態に陥ると短絡的思考のみで埋め尽くされるというのは必定で、私はなんでかこの徘徊を止めようとしない。それはこの間の門前で焚きつけられたその衝動が未だに私の体の中で燻っているからというのも少なくない要因の一つなのだろう。

 しかしそんな徘徊も報酬はあった。しばらく歩いた先に神殿らしき建物が見えたのだ。こんな状態に陥っている元凶にすがるというのも皮肉な話だがしかし人というのはどうも難儀なもので私はその神殿目掛けて走っていた。

 建物というにはだいぶ歯抜けなその神殿は床と天井とその端を繋ぐ柱しかない。中も大きな碑石があるのみである。だいぶ気落ちした私だが人の手掛かりでも探そうとそのあたりを散策した。

 結局は何も見つからずに最後は大きな碑石を残すのみとなった。しかし頼みの綱の碑石も大したことはなく宗教的なことと神を崇め奉る神託が記されているだけだった。

 私はそんな結果に幾度とない絶望と諦観の念を抱いていた。そうして私の意識を繋いでいた最後の柱が崩れ去り私はまるで神に祈るかの様に碑石の前に崩れ意識を失った。

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 暑苦しさと息苦しさで目が覚めるとそこは決して良いとは言えないお粗末な出来の寝室であった。木の角材が十字に嵌められただけの窓からは荒野ならではの乾燥した空気がダイレクトに流れ込んでおり、より一層私の睡眠を邪魔していた様だ。

 しかし怪我の巧妙とはこのことか、これで私の空腹と喉の渇きが潤せるかもしれない。この場合神に助けられたという形になるのだろうか。いやそんなことはない、そもそもの元凶が神なのだからそれは自作自演である。

 まったく、私はどれだけ神の手の平で踊れば良いのだろうか。少しでも嘆きたいものだがこの腫れ上がった喉がそれを邪魔する。

 そう苦悶しているとこの部屋の扉が開かれた。

「おぉ、起きられましたかな。旅人殿。」

 限りなく猫に近い初老の男が部屋に入ってきた。老人の姿もかなり衝撃的ではあるが私の現状としては老人が手にしているお盆に乗っているグラスの中身が気になって仕方がない。

「あぁ、まずこれが最初じゃな。」

 差し出された水を無邪気に貪る。喉なんて痛いのにそれでも吸収したい欲望が水分を欲している。きっと煙たがられるのを理解しているのにタバコを吸う人間はこんな気分なのだろう。人間原初に基づけばこんなもので要は野生的なのである。

 しかし不思議なもので、あそこまで廃れていた神殿に人が来たというのは些か懐疑的な態度に構えるには十分な些事である。もしかすればこの老人が野生に近い見た目であることが多少起因しているかもしれない。

 どれだけ人がいる様に感じられない場所でもどこでも野生の動物はやはり自然であるのかも知れない。

「儂がどうかしたか?」

 そう不思議がる老人にかぶりを振って応答する。急激な変化にまだ喉の対応が追いついていないのである。しっかりした人間的な反応に満足したのか老人は柔和な笑みを見せる。

 その一連はまるで田舎の祖父母を彷彿とさせ、私はそれに郷愁を感じた。しかしホームシックなどとうに過ぎていて今は今後の不安に対して浅慮していたところである。

「そうかそうか。腹も減っておるじゃろう、少し待っておれ豪勢ではないが腹の満たせる物を持ってこよう。」

 そう言って老人は私に尻尾を見せて部屋から出て行った。世の中には親切な人もいるもので神殿からの老人という繋がりで宗教的なイメージが目に浮かんでなんだかそんな気がしたのだ。

 だからあの老人に私はとても気を許しているのだ。しかしそれは人の心理として至極当然である。落とされた一筋の糸にもそれを落とした神にも一切の疑心を抱かないのが正味人間である。

 そんな詰まらない考えは器用に片手でお盆を支えた老人が扉を開けたことで中断された。

「キノコパスタじゃ、よく味わってゆっくり食べなさい。」

 豪勢でないと言っておきながらかなりのクオリティだ。香ばしい匂いに鼻腔をくすぐられるが喉の兼ね合いもあって少しづつ味わう。

 おそらく味付けには醤油とコンソメが主に使われているのだろう、ほのかにニンニクの香りもしていることからそれとオリーブオイルも使われている筈だ。具材として使われているエリンギも傘が開いたものではなく柄の部分が伸びた物なので暗室栽培ができる最低減の施設があることが窺える。この一皿で分かった。この家、もしかすれば村はある程度発達した文明を営んでいる。それもこの簡素な家の作りとは別格の技術力で。

「美味いか?」

 私は首肯する。空きっ腹に厳しかった冷水もあったかいご飯で埋めれば充足感は申し分ない。唐突に失い唐突に手に入ったものは所謂圧倒的感謝の様なものは生じず、なんだか一時期の夢のような気分で気がつくとフォークを持つ右手が止まっていた。

 そう呆けていると老人が不思議そうに見つめてきたので少し恥ずかしくなってパスタを食べる手を再開した。視界の隅には満足そうにうなずく老人の顔が見えたが恥ずかしさとパスタの美味さも相まって無視をした。

「満足そうで何よりじゃ。」

 好々爺とした彼の言動に私は少し深いところで安心していた。どうしてか高い技術力で作られたパスタにも疑問は絶えなかったがそれに関しても私が幸福であるから理由を考えることもせずにいた。そんな風に折り重なった私の不注意が招いた結果が実質的な左腕の損失である。

 この部屋はおそらく老人が就寝時に使用しているのだろう寝室で、家具はベッドが1つだけ扉側の壁に対して側面をくっつける様にあった。なので私の側で立つ老人には私の左側を見せることになっている。

 だからいきなり振るわれた剣鉈が私の腕の腱を切るに留まったのはいきなりの食べ過ぎに少し倦怠感が去来して体が傾いたからである。

 危機感が低い私はどう抵抗もできなかったが、一度死んだことで起きた諦観が深く根付いていたからだろう老人が閉め忘れていた扉から部屋を飛び出した。家の造りにふさわしく鍵なども付いていない扉を蹴破って道を駆ける。

 どうやら周囲に建物は無くここにはあの老人の家しか無かった様だ。しかしさっきまでの荒野とは違ってある程度雑草なども生えたしっかりとした道があった。

 近くに森も見えたため私は背中に感じる嫌な気配から逃げるように走っていった。

 快晴と言って良いほど全く雲のない空であるのにそれにはなぜか不安がつきまとい、そこに安寧などは無かった。

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 逃げるということは大して問題の解決にならないことが多い。今回もそれに当てはまるが、それが気休めにでも成るのなら今の私にとっては過分である。

 私は恐怖を感じているのだ。それは遅まきながら私の不信感を煽る。前世で人を信用するということをあまりそれらしくした事は無かった。それも相まってかあの老人に完全に騙されてしまった。私はそのことに対して、と言うかそれを成したこの世界の人間に対して不信感を感じているのだ。

 あまり人間同士のやり取りが上手ではない私はそう言った意味で素直過ぎるのだ。

 しかしこれは性格的な問題であるので治しようが無いのである。だからか私は全体的に欺瞞であり正義感と疑心を内包した私と言うのがどうにも納得いかない。

 それが故に私は前世で華もなく人生と言っていいほど高尚なものを歩めなかったのである。

 森に分け入り深い所まで来てようやく不安はある程度解消された。しかしそれが今の状況を好転させるものではないことを私は十分に理解している。しているつもりだが、だからと言って妙案など思いもつかない。

 だから私は一つの指針として、こんな状況の全ての元凶である神的な存在に一矢報いたいなと考えてみた。

 静まりかえった森と沈みかけた太陽はなんだか私の決心を後押ししてくれている様にも、そんなお気楽な私を叱咤している様にも見えたのがなんだか心優しくて、私は少し安心して土に横になることができた。

 きっと明日は晴れるだろう、そんなひと時も露と消えゆく今日この頃である。

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