身代わり婚約者は生真面目社長に甘く愛される
36
テディベアだった。
頭にティアラとベールを被り、白いドレスを着ている。あちこちほつれているし、黄ばんでいるが上質な造りだと分かる。
ふらふらと寄る。妙に動悸が高鳴っていた。
見覚えがある――いや、持っていたことがある。
ウェディングベアという、結婚する二人の名前をテディベア二体に刺繍するサービスを私のブライタル会社はしている。
それが始まったのは二十年前ほど。試供品が何体もあって、たまたま会社に遊びに来た私が見つけてほしいとねだったのだ。そのうちの一体を貰った、はず。
だけど、その後どうして手放してしまったんだろう。
泣いていた子に――渡した? いつ頃の話? どうしてだっけ。
カラスが、手から持って行った。それで……?
「つばきさん?」
いつのまにか悠馬さんが部屋に入っていた。
「悠馬さん、この子は……?」
「……貰ったんですよ。俺が……母親が亡くなって、そのことを言われて泣いていたら」
「そう……だっけ」
そうだ。そうだった。
□
お行儀よくするんだよ。両親にそう言われて連れていかれた先は、立食のパーティー会場だった。
どういう集まりなのかは分からなかったけれど、いろんな人たちが居て楽しかった思い出がある。
つばきは正一郎おじさんと一緒に忙しく回っていたから遊べなくて、両親も他の人たちとお話していてつまらなかった。
バラの花が咲いている時期で、人の集まりから離れると良い香りがそこかしこからした。持っていたテディベアに花の匂いを嗅がせているとしゃくりあげるような声に気づいたのだ。
不思議に思って見に行くと、自分よりも年上の少年が蹲って泣いていた。
「ねえねえ、どうしたの?」
「……」
少年は何も話してくれなかった。私はしばらく待っていたけど、飽きて落ちた花びらをテディベアの頭に載せて遊んでいた。
「……お母さんが」
ぼそりと彼は口を開いた。
「お母さん、去年死んじゃったんだけど……みんなが死んじゃってかわいそうだね、新しいお母さんは来ないのって、聞いてきて……」
今思えばひどい話だが、当時の私にはよく分からない話だった。
しばらく慰め方に悩んだ後、私はテディベアを見る。
さみしい時はぬいぐるみを抱っこすると良いよ、とおばあちゃんに言われたことを思い出した。
さみしくない私よりも、さみしい彼に渡したほうがいいのではないだろうか。子供心にそう思ったけれど、大事なテディベアを差し出すには決心がいる。
なんどかテディベアを抱きしめて、決めた。
「……これね、あーちゃんの大事なくまさんなんだけど、おにいさんにあげるね」
「え?」
「たからものなんだけどね、おにいさんといっしょにいたいっていうから、あげる」
差し出そうとした時だった。
黒い影が強引に私の手からテディベアを奪い去る。カラスだった。
「あーっ! こらー!」
空高く舞い上がる鳥に私は叫ぶことしかできない。
「追いかけないと」
少年は涙を拭いて立ち上がり、駆けだした。私もその後ろを追いかけていく。
バラ園の奥、まだ整備がされていない林へカラスが逃げ込む。が、重かったのかテディベアがカラスの口からぽろりと落ちた。
ひとまずは持っていかれなかったようだと安堵する。
落ち葉の積もった坂道の下でテディベアは転がっており、子どもの身体ではそこに行くのは難儀な場所だった。
「待ってて」
少年はそう言って林の中に足を踏み入れる。
私は、視線の低さもあり彼の足元の石がぐらついていたのを見た。
「あぶな――」
彼の腕を引くが、慣れない靴のせいで足が滑る。
少年が後ろに倒れこむのと、私が坂道へ落ちたのはほぼ同時だった。
勢いと共に滑り落ち、木の根やむき出しの石に柔らかい皮膚は傷つけられていく。ようやく止まった時、腕がひどく熱くてたまらなかった。
視界の端が赤くて、どうしてなのだろうと考えている自分がいた。
頭を動かすとテディベアがそばにあった。左腕は動かなかったから、右手で持つと後から滑ってきた少年に差し出す。
さっきみたいに泣きだしそうな表情をしていた。
笑ってほしかったのに。
「さみしくないよ」
□
私たちは、見つめ合ったまま何も言えずにいた。
傷がひどく疼く。
「……あなたは……、泣いていた男の子?」
「忘れていた?」
「今思い出した。――知っていたの?」
あんな小さい頃のことを覚えているなんて。
しかも顔だって成長と共に変わるのだから、本人かどうかなんて身内以外は判断できないはずだ。
「最初、君を見てなんとなく見覚えがあると思った。だけど『つばき』とは名乗っていなかったから確証はなかったけれど……でも、直感でもしかしたら、と」
「もしかしたら、で婚約したの?」
「あの時言ったことも半分本音だよ。縁談がめんどうだったから」
悠馬さんはからりと棚のガラス戸を開けてテディベアを取り出す。
記憶の中にあるよりずっと小さかった。
「あの時の子ではないかなって、一緒に過ごすうちに思うようになった。それでこの前、君の傷痕を見たときに――確信したんだ」
私は自分の左肩を触る。
「これだけで?」
「風のうわさで聞いていたんだ。左肩に大きな傷跡が残ったって。それに、あのパーティー会場には――本条家もいた。年も考えれば、君か『本条つばき』だ」
「名推理ね。私、全然そんな事考えもしなかった……この瞬間まで」
悠馬さんは私にテディベアを渡す。
「ずっと返したかった。ありがとう」
「ううん、あげたんだよ」
ようやく夢の意味が分かった。
無意識的に、悠馬さんが泣いていた男の子だと気付いていたのだろうか? 表層意識では気づかなかったけれど。
「もうさみしくはないから」
「そっか」
テディベアを抱きしめる。
まさか再び出会えるなんて。
「……ずっと、探していたんだ」
「私でよかった」
ほほ笑むと、悠馬さんも笑って抱きしめて来た。
彼の鼓動は激しくて、表情には出ないけれど緊張しているというのが分かる。それがとても嬉しい。
「失礼しま――」
「あ」
東さんだった。
「……家でやれ!」
怒られた。
頭にティアラとベールを被り、白いドレスを着ている。あちこちほつれているし、黄ばんでいるが上質な造りだと分かる。
ふらふらと寄る。妙に動悸が高鳴っていた。
見覚えがある――いや、持っていたことがある。
ウェディングベアという、結婚する二人の名前をテディベア二体に刺繍するサービスを私のブライタル会社はしている。
それが始まったのは二十年前ほど。試供品が何体もあって、たまたま会社に遊びに来た私が見つけてほしいとねだったのだ。そのうちの一体を貰った、はず。
だけど、その後どうして手放してしまったんだろう。
泣いていた子に――渡した? いつ頃の話? どうしてだっけ。
カラスが、手から持って行った。それで……?
「つばきさん?」
いつのまにか悠馬さんが部屋に入っていた。
「悠馬さん、この子は……?」
「……貰ったんですよ。俺が……母親が亡くなって、そのことを言われて泣いていたら」
「そう……だっけ」
そうだ。そうだった。
□
お行儀よくするんだよ。両親にそう言われて連れていかれた先は、立食のパーティー会場だった。
どういう集まりなのかは分からなかったけれど、いろんな人たちが居て楽しかった思い出がある。
つばきは正一郎おじさんと一緒に忙しく回っていたから遊べなくて、両親も他の人たちとお話していてつまらなかった。
バラの花が咲いている時期で、人の集まりから離れると良い香りがそこかしこからした。持っていたテディベアに花の匂いを嗅がせているとしゃくりあげるような声に気づいたのだ。
不思議に思って見に行くと、自分よりも年上の少年が蹲って泣いていた。
「ねえねえ、どうしたの?」
「……」
少年は何も話してくれなかった。私はしばらく待っていたけど、飽きて落ちた花びらをテディベアの頭に載せて遊んでいた。
「……お母さんが」
ぼそりと彼は口を開いた。
「お母さん、去年死んじゃったんだけど……みんなが死んじゃってかわいそうだね、新しいお母さんは来ないのって、聞いてきて……」
今思えばひどい話だが、当時の私にはよく分からない話だった。
しばらく慰め方に悩んだ後、私はテディベアを見る。
さみしい時はぬいぐるみを抱っこすると良いよ、とおばあちゃんに言われたことを思い出した。
さみしくない私よりも、さみしい彼に渡したほうがいいのではないだろうか。子供心にそう思ったけれど、大事なテディベアを差し出すには決心がいる。
なんどかテディベアを抱きしめて、決めた。
「……これね、あーちゃんの大事なくまさんなんだけど、おにいさんにあげるね」
「え?」
「たからものなんだけどね、おにいさんといっしょにいたいっていうから、あげる」
差し出そうとした時だった。
黒い影が強引に私の手からテディベアを奪い去る。カラスだった。
「あーっ! こらー!」
空高く舞い上がる鳥に私は叫ぶことしかできない。
「追いかけないと」
少年は涙を拭いて立ち上がり、駆けだした。私もその後ろを追いかけていく。
バラ園の奥、まだ整備がされていない林へカラスが逃げ込む。が、重かったのかテディベアがカラスの口からぽろりと落ちた。
ひとまずは持っていかれなかったようだと安堵する。
落ち葉の積もった坂道の下でテディベアは転がっており、子どもの身体ではそこに行くのは難儀な場所だった。
「待ってて」
少年はそう言って林の中に足を踏み入れる。
私は、視線の低さもあり彼の足元の石がぐらついていたのを見た。
「あぶな――」
彼の腕を引くが、慣れない靴のせいで足が滑る。
少年が後ろに倒れこむのと、私が坂道へ落ちたのはほぼ同時だった。
勢いと共に滑り落ち、木の根やむき出しの石に柔らかい皮膚は傷つけられていく。ようやく止まった時、腕がひどく熱くてたまらなかった。
視界の端が赤くて、どうしてなのだろうと考えている自分がいた。
頭を動かすとテディベアがそばにあった。左腕は動かなかったから、右手で持つと後から滑ってきた少年に差し出す。
さっきみたいに泣きだしそうな表情をしていた。
笑ってほしかったのに。
「さみしくないよ」
□
私たちは、見つめ合ったまま何も言えずにいた。
傷がひどく疼く。
「……あなたは……、泣いていた男の子?」
「忘れていた?」
「今思い出した。――知っていたの?」
あんな小さい頃のことを覚えているなんて。
しかも顔だって成長と共に変わるのだから、本人かどうかなんて身内以外は判断できないはずだ。
「最初、君を見てなんとなく見覚えがあると思った。だけど『つばき』とは名乗っていなかったから確証はなかったけれど……でも、直感でもしかしたら、と」
「もしかしたら、で婚約したの?」
「あの時言ったことも半分本音だよ。縁談がめんどうだったから」
悠馬さんはからりと棚のガラス戸を開けてテディベアを取り出す。
記憶の中にあるよりずっと小さかった。
「あの時の子ではないかなって、一緒に過ごすうちに思うようになった。それでこの前、君の傷痕を見たときに――確信したんだ」
私は自分の左肩を触る。
「これだけで?」
「風のうわさで聞いていたんだ。左肩に大きな傷跡が残ったって。それに、あのパーティー会場には――本条家もいた。年も考えれば、君か『本条つばき』だ」
「名推理ね。私、全然そんな事考えもしなかった……この瞬間まで」
悠馬さんは私にテディベアを渡す。
「ずっと返したかった。ありがとう」
「ううん、あげたんだよ」
ようやく夢の意味が分かった。
無意識的に、悠馬さんが泣いていた男の子だと気付いていたのだろうか? 表層意識では気づかなかったけれど。
「もうさみしくはないから」
「そっか」
テディベアを抱きしめる。
まさか再び出会えるなんて。
「……ずっと、探していたんだ」
「私でよかった」
ほほ笑むと、悠馬さんも笑って抱きしめて来た。
彼の鼓動は激しくて、表情には出ないけれど緊張しているというのが分かる。それがとても嬉しい。
「失礼しま――」
「あ」
東さんだった。
「……家でやれ!」
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