身代わり婚約者は生真面目社長に甘く愛される

黒柴歌織子

34 悠馬side

「ありがとう。これで私も動きだせる」
「動く?」

 有益な情報が聞けた。
 あやめさんがかえで君と仲良くしていたこと、かえで君があやめさんを心配していたことが功を為した。

「互いにこのことは黙っていよう。君の父親に知られたら良くなさそうだ」
「もちろんです」

 真面目な表情でかえで君は頷いた。
 息子の彼からしてもあまり油断できない相手らしい。
 俺は親子仲が良好というか、ほどほどにうまく行っているのでここまで緊迫したような間柄の家族というのはあまり想像ができない。

「――まあ、しかし、わざわざマンションまで来るとは思わなかったよ」
「ぐ……」
「あやめさんに教えてもらったのかな」
「いえ……。最寄り駅がここで、徒歩圏内とも聞いていたのでマンションを調べていたんです。そしたら所有者の名前が香月さんのマンションがあって、ここだなって」

 ほぼやってることがストーカーだった。反応しにくい。
 どうしたらここまで必死になれるんだ。
 名義を父親にしておいたほうがいいだろうか。そうなると後のちややこしくなりそうだ。

「はぁ、そうか……。それで? かえで君から見て、私は相応しかった?」
「……まあ」
「ならよかった」

 苦い顔をされた。表情に出やすい子だ。
 俺は手元のグラスに目を移す。水滴が表面に浮いてコースターを濡らしていた。
 なんとなく指先で拭いながら、一番興味があって一番聞きたくないことを口にする。

「……もしも、つばきさんが戻ってきたらあやめさんはどうなる?」
「あなたの婚約者ではなくなります」
「だろうな」

 本条家は「実はこちらが本物の婚約者でした」と言って俺が「はいそうですか」で済ますと考えているのか。済ますような策を考えて居たら不味いな。

「用済みになったら、捨てられるのか」
「大丈夫です」

 かえで君は凛とした声を出す。

「おれが、貰います」

 思わず彼の顔を二度見してしまった。
 突然決意に満ちたことを言われて驚いてしまう。

「あやめ姉さんはおれが守ります」
「彼女の婚約者の前でずいぶんはっきりと言うんだな」
「だって、香月さんはつばき姉さんの婚約者でしょう?」

 ……なるほど?
 『ふさわしいか見極めに来た』ということはあながち嘘でもないが、本当でもない。
 あやめさんを心配していること、そして必要以上に俺と仲良くなっていないか気にしていたのだろう。

「悪いが――あやめさんを手放すつもりはない。誰になんと言われようと」
「……」
「たとえかえで君が、あやめさんを好きであってもだ」

 キッとかえで君は俺を睨む。
 だがここは俺も譲れない。

「君のもとに行かせる気も、ない」
「……おれより先に、本条家に喧嘩を売ることになりますよ」
「できれば避けたいが、場合によってはそうなるだろう」
「本条家が何をしだすか……おれにすら分かりません」
「やるだけやっているだろう、あちらも。――もう黙っている時間はお終いだ」

 ぬるくなった冷茶を口に含む。
 真似てかえで君も同じように飲んだ。

「でも、良かった。本条の人間は誰もあやめさんを顧みていないと思っていたから、君が彼女を心配してくれていたというのは安心した」
「……そうですかね」
「誰かに心配してもらっているということは心強い。どんな時でも」

 彼は眉をひそめたままだ。

「もう少し待てば、あやめさんが帰ってくるだろう。会うかい」
「いえ、いいです。お茶、ごちそうさまでした」

 かえで君は立ち上がる。

「連絡先の交換はしなくていいのかな。名刺には会社の電話番号しか書いていないが」
「え?」
「さすがに次、アポイントなしで来られたら警察呼ばれるぞ」
「……」

 しぶしぶと言った風にかえで君が電話番号を教えて来た。
 自分で言っておいてなんだが、またマンションに来る気か?

「おれが来たこと言わないでください」
「構わないが、どうして?」
「あんまりおせっかいだと思われたくないんです」

 もう遅い気もするが、俺は分かったと返した。
 彼をエントランスまで見送る。
 ――さて、何から手を付けるべきか。



「ただいまー」
「おかえり」

 くたくたという言葉が一番合いそうな雰囲気を醸しながら彼女は帰って来た。

「会議が長引いちゃったよ……」
「お疲れ様。お茶は飲む?」
「飲む。今はまだいいけど、今年の夏も熱くなりそうだね」
「クールビズといってもネクタイつけないといけないシーンはあるから嫌なんだよな」

 なんでもないような会話をする。
 今だけではない。これから先も、この人といたい。

「ん? 悠馬さんどうしたの? 私の顔になんかついてる?」
「かわいいな、と」
「っ!?」

 真っ赤になった。やっぱり何してもかわいい人だ。

「な、なに!? いきなりどうしたの?」
「思ったことを言っただけだよ」
「ちょ…っ、も、もー!」

 誰にも気を遣わず、旅行へ行こう。ふたりで暮らしていこう。必ず。
 俺はそっと心に誓いをたてた。

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