身代わり婚約者は生真面目社長に甘く愛される

黒柴歌織子

30

 家につき、服も化粧もそのままにベッドに倒れこむ。
 直帰したので普段帰る時間よりはるかに早い。
 これでもかというぐらい舐めた態度を取られ、気力はゼロだ。これまでの厄介なクレームがかわいく思えてしまうぐらい酷かった。しかも親戚というのがまた絶望的だ。
 泣きそう。

「探偵雇うぐらい信用できないっていうなら最初から頼まなければよかったのに」

 面子を保つ方がその時は最優先だったにしろ。
 私はばたばたとベッドの上で暴れる。落ち着いて来てようやく怒りが込み上げてきた。

「本当にやることが姑息ー! 信じられない! ばーかばーか!」

 一通り叫ぶ。すっきりせず、疲れただけだった。
 天井を眺めながら考える。
 不幸中の幸いだったのは、日曜日の時点では探偵は張り付いていなかったことだ。さすがにあれは露見したらまずい。あいさつ回りは言い訳のしようがあるが、その後の水族館デートはアウトだった。
 これからも雇うかどうかは不明だけど、ただの脅しとして受け取らないほうがいいだろう。やるときはやるので、あの一族。
 スマホを手に取り【探偵 撒き方】と検索すると意外にヒットした。流し読みするが、ド素人がプロを撒くのは難しいことが分かっただけだ。遠くから写真を撮られることを回避する方法は無いのではないか。
 悠馬さんにこのことを伝えるべきだろうか。
 ――黙っているのは、得策ではないな。彼だって本家に振り回されている被害者であるわけだし。帰宅してきたら話そう。
 動く気力もなくベッドに横たわっているとメッセージが入った。
 かえで君からだ。
【あやめ姉さん、最近おれの父さんに何か言われた?】
 なんだろう。エスパーだろうか。
【ううん。大丈夫だよ。どうして?】
【この前、家であやめ姉さんのことを話しているのが聞こえたから。ろくでもないこと言われてそうだなって】
 大正解だ。言われている。
【つばきのことでピリピリしているのかもね】
【そうなんだろうけどさ。おれ、今大学の帰りなんだけどちょっと会おうよ。この前はちゃんと話も出来なかったし】
 また出かけるのがめんどくさかったが、弟のようにかわいがっている子でもあるので結局折れた。
 現在地を聞くと最寄り駅を通る電車に乗っているようだ。駅ビルにカフェがあったのを思い出し、そこを待ち合わせ場所にする。
 化粧だけを直し、私は出かけた。


「なんか、やつれた?」

 改札口で出迎えたかえで君は心配そうな顔をしている。

「忙しかったからね」
「……仕事が?」

 彼は昔から妙に鋭い。
 苦笑いをすると、察したようだった。

「うちの父親がごめん」
「かえで君が謝ることではないよ。いろいろ、互いに事情が積み重なっているだけだから」

 カフェに入り腰を落ち着ける。ケーキが美味しそうだったが、食べる気にはならず紅茶だけを頼んだ。
 かえで君は最初は遠慮していたもののパフェを選ぶ。これから夕飯だろうに、いいのだろうか。

「つばき姉さんからさ、連絡が入ったんだ」
「いつ?」
「今朝。いや、夜中か……」

 私と同時期に弟へも迷惑行為を働いていたらしい。

「ニュージーランドにいるらしい」
「私もそれ聞いた」
「え、そうなの。いつ連絡きた?」
「夜中」

 うんざりした顔で彼はアイスの部分を食べた。

「……正一郎おじさんには、教えた?」
「ううん。そもそも父さんとは時間が合わなくて会ってない」
「教えないほうがいいかもね。つばき、連れ戻されたら次はもう二度と帰ってこなさそうだし」
「おれもそう思ってる」
「おばさんには伝えた?」
「うん。怒っていたけど、無事ならそれでって言ってた」
「そっか」
「……母さんが心配していたよ。あやめ姉さんが父さんに無理をさせられているって」
「おばさんが……。今のところ、私は平気だから安心して」

 楽しくやっているから、とは言わないほうがいいかな。
 ぽろりとおじさんに溢されたら困る。

「……あやめ姉さん、婚約者のことどう思っているの?」
「え?」
「ぜんぜん知らない男と付き合えって言われて、一緒に住んでいるんだろ。なにか嫌だったりとか辛かったりとかない?」

 かえで君の顔は真剣そのものだった。
 おもわず私はたじろいでしまう。

「ど、どうしたの」
「あやめ姉さんが嫌な思いをしているのは、いやだから」

 なんだか成人を迎えてからずいぶん大人びてしまった。

「優しいね、かえで君は。でもね、本当に大丈夫なんだよ」

 悠馬さんとの生活は苦ではない。
 自分を偽り、騙していることが辛いことはあるけれど一緒に住むことが嫌だとは思っていなかった。

「……優しいとかじゃないよ。おれは――」
「こちら試作品のケーキです。召し上がりますか?」

 店員さんが小さく分けたケーキを持ってきた。
 一口サイズならと貰う。オレンジピールの香りが良かった。

「……」
「かえで君、おれは、の続きは?」
「なんでもない」

 ちょっと不機嫌になってしまった。ケーキが口にあわなかったのかな。

「明日レポート提出があるから帰るよ。奢ってくれてありがと、あやめ姉さん」
「うん。また今度ゆっくり話そうね」
「困ったら……言ってくれよ」

 念を押すように彼は言う。
 頼られたい年頃なのだろうか。

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