身代わり婚約者は生真面目社長に甘く愛される
9
帰りの電車で、私はチャットアプリを開く。
つばきに送ったメッセージはすべて既読がついているけれど、返信は一度もない。普段なら彼女のほうが大量にメッセージを送りつけてくるのでこれは異常だ。わざと無視をしているのだろう。
つばきの弟、かえで君にはたまにメッセージが入るようなので元気かつのびのびしてはいるようだけれど。
それはいいのだが、家に帰ったら絶対におじさんに説教をされるんだろうな、つばき……。
まったく、いくつになってもあの子に引っ張り回されているなあと小さくため息をついた。近い年の遊び相手が互いしかいなかったのもある。
【つばき、早く帰ってきなよ】
何度めかになる文面を送る。
【さすがにお叱りは避けられないけど、時間が経つともっと怒られるよ】
ふと、その文は自分にも言えることに気づいた。
悠馬さんにすべてを話したとき、一緒に過ごした時間が長くなるほどに怒らせてしまうんだろうな、と。
それはもう仕方ない。代理である以上それは避けることができない。
改めて、気の重い役割を押し付けられたものだと思い知る。
【悠馬さんは、】
そこまで打ち込んで、ためらう。
悠馬さんはいい人だよ。親切で、真面目な人。きっとつばきを受け入れてくれると思う。
そんなことを書こうとしたけど親指がなぜだか動かない。私は頭を振り、悠馬さんの名前を消した。
代わりに、一つ質問を残す。
【私の宝物ってなんだったか覚えている?】
既読はつかない。気が向いたら答えてくれるかな。
まだ耳に馴染まない駅のアナウンスを聞いて、私は立ち上がった。
玄関ドアを開く。まだ悠馬さんは帰ってきておらず、彼の靴は無かった。
廊下を通り、広いリビングに入る。エアコンをつけてソファに荷物を置くと、壁に取り付けられたパネルを押す。少し遠くで浴槽にお湯が流れ込む音がした。
ええと…。ご飯はあるし、冷蔵庫の中にあるものを適当に使ってしまおう。
「ふう」
そのまえに一休み。今日も忙しくて疲れてしまった。
この仕事の多さから本条ブライダルが傾きかけているなんて信じられない。が、数字を見ると確かに…長い目で見ると危ういというのがわかる。
本家は融資してくれると言うけれどどこまでやってくれるのだろうか。さすがに約束を反故にするとは思いたくないが、口約束だからちょっと怪しいな……。
質の良いソファに沈み込むといろんなことがどうでも良くなる。あー、このまま寝てしまいたい。
…私の欲望がストレートに効いてしまったらしい。
まぶたが重くなった次の瞬間にはもう意識を失っていた。
――さらりと髪を触られる感触。
セットが解けた髪はゆるゆると弄ばれる。優しく梳かれるのが気持ちよくて、目を開けなければいけないと思いつつも身を委ねてしまう。
指先が耳をかすめる。ただそれだけなのに、じんと耳たぶが熱を持ったようだ。
もう少し寝たふりしてもバチは当たらないよね…とそのままされるがままになる。
毛先が持ち上げられる。そして――え?
あれ? 今、もしかして、キス…した!?
ぶわっと顔が熱くなる私を置いて、彼は立ち上がりキッチンへ入る気配がした。
そんなことよりどくんどくんと鼓動を打つ心臓がうるさい。落ち着くにしたって、どうしたらいいのだろう!?
思い切って目を開けると悠馬さんの背中が視界に入った。
ど、どう声を掛ければいいのだろう。いや私はこれまで寝ていたのだから緊張する必要もないけれど…。知らないふりで当然あっているのだけれど、それで収まるならこんなに困ることはないのだ。
「…おかえりなさい」
無難な挨拶を、からからの喉から声を絞り出す。
彼は振り向いてにこりと微笑んだ。
「ただいま」
「起こしてくれても良かったのに…」
「よく寝ていましたから悪いと思って。それより、夕飯はまだなら何か作りましょうか?」
「さすがにそれは悪いです! 悠馬さんもお疲れでしょうし…」
私はあわてて立ち上がり悠馬さんの横に立つ。
家の中で横並びになるのってこれが初めてかもしれない。いつもはどちらかが座っていたり対面だったりしていた。
やっぱり背が高いなあ、と見上げていると悠馬さんが気付いて首を傾げた。
「どうしました?」
「なんでもないです。それより本当に悠馬さんは休んでいてください、朝も作って貰いましたし」
「俺は弁当を作って貰いました」
うっ、すごくいい笑顔をしている。有無を言わさないぞって顔だ。
「美味しかったですよ」
「それは…ありがとうございます」
ただ一言だけなのに照れてしまう。なぜだろう、葉月にだって同じこと言われているのに。
って、そうじゃなくて! あやうく丸め込まれそうだった!
「そ、そうだ! なら、一緒に作りませんか!?」
「一緒に?」
「はい!」
勢いよく頷いてしまった。
悠馬さんはぽかんとした後に「いいですね」と言ってくれる。
「とはいっても、今日野菜炒め作ろうとしか考えていなかったんですけど…」
「いいですよ。うーん、豚肉もありますししょうが焼きにするのはどうでしょう」
「しょうが焼き!」
「俺それ作りますね。あとは汁物とか…」
「なら私がお味噌汁を作ります」
実はお味噌汁を作るのは好きだったりする。
忙しい時は化学調味料を使うが、こだわりたい時は出汁から作ることもあるぐらい。さすがに今は化学調味料に頼んでしまうけれど。
そうと決まれば――となり、まな板が一枚しかなくて順番待ちということに気づいて私たちはどちらともなく吹き出してしまう。互いに一人暮らしだったので誰かと一緒に作るという経験が少ないためだろう。
ジャンケンして先に包丁を握った悠馬さんがぼそりと呟く。
「共同作業ですね」
私は水を出す音のせいにして聞こえないふりをした。
あまり意識させないでほしい。
つばきに送ったメッセージはすべて既読がついているけれど、返信は一度もない。普段なら彼女のほうが大量にメッセージを送りつけてくるのでこれは異常だ。わざと無視をしているのだろう。
つばきの弟、かえで君にはたまにメッセージが入るようなので元気かつのびのびしてはいるようだけれど。
それはいいのだが、家に帰ったら絶対におじさんに説教をされるんだろうな、つばき……。
まったく、いくつになってもあの子に引っ張り回されているなあと小さくため息をついた。近い年の遊び相手が互いしかいなかったのもある。
【つばき、早く帰ってきなよ】
何度めかになる文面を送る。
【さすがにお叱りは避けられないけど、時間が経つともっと怒られるよ】
ふと、その文は自分にも言えることに気づいた。
悠馬さんにすべてを話したとき、一緒に過ごした時間が長くなるほどに怒らせてしまうんだろうな、と。
それはもう仕方ない。代理である以上それは避けることができない。
改めて、気の重い役割を押し付けられたものだと思い知る。
【悠馬さんは、】
そこまで打ち込んで、ためらう。
悠馬さんはいい人だよ。親切で、真面目な人。きっとつばきを受け入れてくれると思う。
そんなことを書こうとしたけど親指がなぜだか動かない。私は頭を振り、悠馬さんの名前を消した。
代わりに、一つ質問を残す。
【私の宝物ってなんだったか覚えている?】
既読はつかない。気が向いたら答えてくれるかな。
まだ耳に馴染まない駅のアナウンスを聞いて、私は立ち上がった。
玄関ドアを開く。まだ悠馬さんは帰ってきておらず、彼の靴は無かった。
廊下を通り、広いリビングに入る。エアコンをつけてソファに荷物を置くと、壁に取り付けられたパネルを押す。少し遠くで浴槽にお湯が流れ込む音がした。
ええと…。ご飯はあるし、冷蔵庫の中にあるものを適当に使ってしまおう。
「ふう」
そのまえに一休み。今日も忙しくて疲れてしまった。
この仕事の多さから本条ブライダルが傾きかけているなんて信じられない。が、数字を見ると確かに…長い目で見ると危ういというのがわかる。
本家は融資してくれると言うけれどどこまでやってくれるのだろうか。さすがに約束を反故にするとは思いたくないが、口約束だからちょっと怪しいな……。
質の良いソファに沈み込むといろんなことがどうでも良くなる。あー、このまま寝てしまいたい。
…私の欲望がストレートに効いてしまったらしい。
まぶたが重くなった次の瞬間にはもう意識を失っていた。
――さらりと髪を触られる感触。
セットが解けた髪はゆるゆると弄ばれる。優しく梳かれるのが気持ちよくて、目を開けなければいけないと思いつつも身を委ねてしまう。
指先が耳をかすめる。ただそれだけなのに、じんと耳たぶが熱を持ったようだ。
もう少し寝たふりしてもバチは当たらないよね…とそのままされるがままになる。
毛先が持ち上げられる。そして――え?
あれ? 今、もしかして、キス…した!?
ぶわっと顔が熱くなる私を置いて、彼は立ち上がりキッチンへ入る気配がした。
そんなことよりどくんどくんと鼓動を打つ心臓がうるさい。落ち着くにしたって、どうしたらいいのだろう!?
思い切って目を開けると悠馬さんの背中が視界に入った。
ど、どう声を掛ければいいのだろう。いや私はこれまで寝ていたのだから緊張する必要もないけれど…。知らないふりで当然あっているのだけれど、それで収まるならこんなに困ることはないのだ。
「…おかえりなさい」
無難な挨拶を、からからの喉から声を絞り出す。
彼は振り向いてにこりと微笑んだ。
「ただいま」
「起こしてくれても良かったのに…」
「よく寝ていましたから悪いと思って。それより、夕飯はまだなら何か作りましょうか?」
「さすがにそれは悪いです! 悠馬さんもお疲れでしょうし…」
私はあわてて立ち上がり悠馬さんの横に立つ。
家の中で横並びになるのってこれが初めてかもしれない。いつもはどちらかが座っていたり対面だったりしていた。
やっぱり背が高いなあ、と見上げていると悠馬さんが気付いて首を傾げた。
「どうしました?」
「なんでもないです。それより本当に悠馬さんは休んでいてください、朝も作って貰いましたし」
「俺は弁当を作って貰いました」
うっ、すごくいい笑顔をしている。有無を言わさないぞって顔だ。
「美味しかったですよ」
「それは…ありがとうございます」
ただ一言だけなのに照れてしまう。なぜだろう、葉月にだって同じこと言われているのに。
って、そうじゃなくて! あやうく丸め込まれそうだった!
「そ、そうだ! なら、一緒に作りませんか!?」
「一緒に?」
「はい!」
勢いよく頷いてしまった。
悠馬さんはぽかんとした後に「いいですね」と言ってくれる。
「とはいっても、今日野菜炒め作ろうとしか考えていなかったんですけど…」
「いいですよ。うーん、豚肉もありますししょうが焼きにするのはどうでしょう」
「しょうが焼き!」
「俺それ作りますね。あとは汁物とか…」
「なら私がお味噌汁を作ります」
実はお味噌汁を作るのは好きだったりする。
忙しい時は化学調味料を使うが、こだわりたい時は出汁から作ることもあるぐらい。さすがに今は化学調味料に頼んでしまうけれど。
そうと決まれば――となり、まな板が一枚しかなくて順番待ちということに気づいて私たちはどちらともなく吹き出してしまう。互いに一人暮らしだったので誰かと一緒に作るという経験が少ないためだろう。
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