身代わり婚約者は生真面目社長に甘く愛される
3 身代わりだけどお食事を!
――そんな会話をしてから数日後。
私はオフィスでどんよりとキーボードを打っていた。
無機質な音が少しばかり心を落ち着かせる。なんだか誤字変換ばかりしているけど。
「あーやめっ。どうしたの、最近元気ないじゃん!」
同期の葉月が顔を覗きこんできた。
印刷した書類を私の席に持ってきてくれたようだ。
「そうかなあ」
「そうだよ、なんだか上の空だし。何かあったの?」
何があったと言われても…。色々あったけれど、それをここで言うのはまずい気がする。
というか本条家の人間以外に話してしまうのは駄目ではなかろうか。うーん、第三者から意見を聞けないというのは痛い。
「…この前、ちょっといいところで飲んだ紅茶が苦かくて。子供舌なのが恥ずかしくなってしまってね…」
その場つなぎでどうでもいいことを言う。
紅茶はとても美味しかったけれど、香月さんのように砂糖を入れておけばよかった。なんとなく子供っぽく見られたくなくてストレートにしてしまったのだ。
葉月は「なにそれ?」と首を傾げた。うう、言い訳としては苦しすぎたかも。
「苦いなら飲まなきゃよかったのに」
「そうなんだけどね。飲まないといけない場面だったものだから」
「ふーん。だったら飲めるように砂糖なりミルクなり入れなよ。自分が飲みやすいようにしなきゃ」
自分が飲みやすいように、か。
苦い汁を飲みこまなくてはいけない私の立場で、それができるのだろうか。
昔から本家の無茶ぶりに分家が右往左往しているのだけど、まさか直接私に無茶ぶりが来るだなんて予想もしなかったなあ……。
「次からはそうするよ。ちょっと気取りすぎたから…」
「そうだよねー。あやめちゃまったら、いつもオレンジジュースとか頼むもんね」
抗議を込めてデコピンをする。葉月は「いたーい」とけらけらと笑いながら自分の席へ戻っていった。
本当に私の心配をしてくれていたらしい。
そこまで気を使わせるほど空気に出ているということは――香月さんにも知られてしまうのではないだろうか。
ちらりと時計を見る。今は昼を過ぎた一時半。
…退勤後、私と香月さんは一緒にご飯を食べることになっている。
いつもは早く仕事が終わってくれないかと思っている私であったが、今日はどうかいつまでも退勤時間になりませんようにと祈っていた。
それでも時間は経ってしまうものだ。
重い気持ちを引きずりながら私は待ち合わせ場所へ赴く。
場所は勤め先から二駅先にある、以前雑誌で紹介されていたカフェレストランだ。
『短時間、食事を挟んでのほうが最初は会話がしやすいでしょう』という香月さんの提案で、どこがいいかを聞かれたときにたまたま思いついたのがそこだった。料理とか景色とかいろいろあるけれど、一番がオープンスペースの場所なので間違えても個室にならないことだ。
まだ二人きりは気まずい。何より私は普通の身分ではないのだ。
時計を見る。うん、いい時間。
エレベーターの近くに長身の男性が立っていた。…香月さんだ。もう来ていたなんて。
「見て、あの人かっこよくない?」
「誰待ってるのかな」
彼の姿を見てひそひそと通りすがりの女の子たちが話している。
私はとっさに画面のついていないスマホに自分の顔を写した。髪型は変ではないだろうか。服装も普段よりきっちりしたものにした。彼の横にいて変ではないだろうか。
…いや、何を気にしているのだ私は。別にかわいいとか美人とかそういうタイプではないし、なにより私はつばきの代理。釣り合うかどうかなんて考えるだけ無駄だ。
「…あの」
そっと香月さんに近寄り、小さく声をかける。
彼は顔を上げた。銀縁の眼鏡の奥の瞳に思わずどきりとしてしまう。
「お、お疲れ様です。お待たせしました」
「ああ、本条さん。お疲れ様です。俺も今来たところですからお気になさらずに」
義務的な会話で、まるで来客対応をしているような気分だ。
趣旨としてはデートなんだろうけど、まったくそんな感じではない。なんというかお堅い感じ。
いやいや…甘々なムードだったら逆に困るんだから、これでいいのだ。
エレベーターに乗り込む。私たち二人きりで密室というのは、ちょっと気まずい。
「つばきさんは」
「……」
「つばきさん?」
「え!? あ、はい、なんでしょう」
いけない、今の私はつばきだった…。慌てて取り繕いの笑みを浮かべる。
香月さんは私のことをちらりと見たあと、何事もなかったように言葉を続ける。
「なにかアレルギーはありますか?」
「私は…イチゴが」
つばきにはイチゴアレルギーがある。一方で私はイチゴが大好きだ。
彼女を演じなければならない以上、しばらくは我慢しなくてはならないんだなあ…と少ししょんぼりしてしまう。
「そうですか、分かりました。食べられないものを目の前に置かれると困りますから、その確認です」
「あ、そうなんですね…。ありがとうございます」
「いえ」
やっぱり会食って感じがする。きっと男女の会話ってこんなに堅苦しくない。
そんなことを思っていると、目的階に到着した。
私はオフィスでどんよりとキーボードを打っていた。
無機質な音が少しばかり心を落ち着かせる。なんだか誤字変換ばかりしているけど。
「あーやめっ。どうしたの、最近元気ないじゃん!」
同期の葉月が顔を覗きこんできた。
印刷した書類を私の席に持ってきてくれたようだ。
「そうかなあ」
「そうだよ、なんだか上の空だし。何かあったの?」
何があったと言われても…。色々あったけれど、それをここで言うのはまずい気がする。
というか本条家の人間以外に話してしまうのは駄目ではなかろうか。うーん、第三者から意見を聞けないというのは痛い。
「…この前、ちょっといいところで飲んだ紅茶が苦かくて。子供舌なのが恥ずかしくなってしまってね…」
その場つなぎでどうでもいいことを言う。
紅茶はとても美味しかったけれど、香月さんのように砂糖を入れておけばよかった。なんとなく子供っぽく見られたくなくてストレートにしてしまったのだ。
葉月は「なにそれ?」と首を傾げた。うう、言い訳としては苦しすぎたかも。
「苦いなら飲まなきゃよかったのに」
「そうなんだけどね。飲まないといけない場面だったものだから」
「ふーん。だったら飲めるように砂糖なりミルクなり入れなよ。自分が飲みやすいようにしなきゃ」
自分が飲みやすいように、か。
苦い汁を飲みこまなくてはいけない私の立場で、それができるのだろうか。
昔から本家の無茶ぶりに分家が右往左往しているのだけど、まさか直接私に無茶ぶりが来るだなんて予想もしなかったなあ……。
「次からはそうするよ。ちょっと気取りすぎたから…」
「そうだよねー。あやめちゃまったら、いつもオレンジジュースとか頼むもんね」
抗議を込めてデコピンをする。葉月は「いたーい」とけらけらと笑いながら自分の席へ戻っていった。
本当に私の心配をしてくれていたらしい。
そこまで気を使わせるほど空気に出ているということは――香月さんにも知られてしまうのではないだろうか。
ちらりと時計を見る。今は昼を過ぎた一時半。
…退勤後、私と香月さんは一緒にご飯を食べることになっている。
いつもは早く仕事が終わってくれないかと思っている私であったが、今日はどうかいつまでも退勤時間になりませんようにと祈っていた。
それでも時間は経ってしまうものだ。
重い気持ちを引きずりながら私は待ち合わせ場所へ赴く。
場所は勤め先から二駅先にある、以前雑誌で紹介されていたカフェレストランだ。
『短時間、食事を挟んでのほうが最初は会話がしやすいでしょう』という香月さんの提案で、どこがいいかを聞かれたときにたまたま思いついたのがそこだった。料理とか景色とかいろいろあるけれど、一番がオープンスペースの場所なので間違えても個室にならないことだ。
まだ二人きりは気まずい。何より私は普通の身分ではないのだ。
時計を見る。うん、いい時間。
エレベーターの近くに長身の男性が立っていた。…香月さんだ。もう来ていたなんて。
「見て、あの人かっこよくない?」
「誰待ってるのかな」
彼の姿を見てひそひそと通りすがりの女の子たちが話している。
私はとっさに画面のついていないスマホに自分の顔を写した。髪型は変ではないだろうか。服装も普段よりきっちりしたものにした。彼の横にいて変ではないだろうか。
…いや、何を気にしているのだ私は。別にかわいいとか美人とかそういうタイプではないし、なにより私はつばきの代理。釣り合うかどうかなんて考えるだけ無駄だ。
「…あの」
そっと香月さんに近寄り、小さく声をかける。
彼は顔を上げた。銀縁の眼鏡の奥の瞳に思わずどきりとしてしまう。
「お、お疲れ様です。お待たせしました」
「ああ、本条さん。お疲れ様です。俺も今来たところですからお気になさらずに」
義務的な会話で、まるで来客対応をしているような気分だ。
趣旨としてはデートなんだろうけど、まったくそんな感じではない。なんというかお堅い感じ。
いやいや…甘々なムードだったら逆に困るんだから、これでいいのだ。
エレベーターに乗り込む。私たち二人きりで密室というのは、ちょっと気まずい。
「つばきさんは」
「……」
「つばきさん?」
「え!? あ、はい、なんでしょう」
いけない、今の私はつばきだった…。慌てて取り繕いの笑みを浮かべる。
香月さんは私のことをちらりと見たあと、何事もなかったように言葉を続ける。
「なにかアレルギーはありますか?」
「私は…イチゴが」
つばきにはイチゴアレルギーがある。一方で私はイチゴが大好きだ。
彼女を演じなければならない以上、しばらくは我慢しなくてはならないんだなあ…と少ししょんぼりしてしまう。
「そうですか、分かりました。食べられないものを目の前に置かれると困りますから、その確認です」
「あ、そうなんですね…。ありがとうございます」
「いえ」
やっぱり会食って感じがする。きっと男女の会話ってこんなに堅苦しくない。
そんなことを思っていると、目的階に到着した。
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