身代わり婚約者は生真面目社長に甘く愛される
2
なぜこうなったのかは、数日前に遡る。
親が経営する本条ブライダルの事務職として働いている私のもとに、社長――つまり父親直々に呼び出された。慌てて社長室へ行くと、そこには顔を真っ青にした父親が立ち尽くしており、私に言ったのだ。
「つばきちゃんがいなくなったらしい。どこに行ったか聞いていないか?」
あのおてんば令嬢が…と呆れてしまった。
つばきはホテルグループを経営する本条家本家の長女だ。蝶よ花よと大切に育てられ、お嬢様というのならまず彼女が真っ先に思い浮かぶ。
分家の私とは歳が同じで、昔はよく遊んだものだが高校に入るころにはほとんど会わなくなっていた。まともに話したのは五年かそのぐらい前だ。
曾祖母の隔世遺伝か顔のよく似た私たちは幼少期によく入れ替えっこをして遊んでいた。今はあまり似てないはずだけれど
「私には何も。つばきもいい大人なんだからどこへ行くのも勝手だと思うんだけど……」
「今回はそうも言ってられないんだ」
「どういうこと?」
「三日後に、お見合いをする予定だそうだ」
へえ。
え!? お見合い!?
「なんでも相手は若社長で、無理を言って頼んだそうだから取り下げることもできないらしい」
本家の強引さは何とかならないものだろうか。
だからこそ、国内高級ホテルシェア上位に居続けることができるんだろうけど。
「そっか…。キャンセルなんてしたら本条家の面子だって潰れてしまうものね」
他人事のように思っていた。だって、本当に他人事だったのだから。
次の言葉までは。
「だからあやめ、お前に代わりを務めてもらいたいと話が出た」
「ええっ!?」
私がつばきの代わりにお見合いをするの!?
「いや、無理だよ! 無茶苦茶すぎる!」
「こちらも断った。自分の娘をよその娘の代わりにするなんてとんでもないと。そうしたら、あやめを電話に出すよう言われて――」
父の説明を待っていたかのように社長室の電話が鳴る。父はすぐにそれを取り、言葉を交わした後、保留ボタンを押して私に受話器を渡した。
「…正一郎さんが、おまえに話したいことがあるんだそうだ」
正一郎おじさんは本家当主。つばきの父親だ。
嫌な予感しかしなかった。だが知らんぷりするわけにも行かず、私は生唾を呑みこんで受話器を握りしめる。
ただでさえあの人のことが苦手なのに。
ーー五分にも満たない通話。
電話向こうの正一郎おじさんが、軽いあいさつの後につばきの話をし、そして私にひとつの条件を出したのだ。
――業績が傾きかけている両親の会社に融資をする条件で、私をつばきの代わりに縁談の席に出して面子を保つ。
断れない、いや、断ることを許さない内容だった。
ほとんど「はい」と「分かりました」と言っていないために会話の内容が分からない父へ、電話を終えた私はただ一言答える。
「私、つばきの代わりになるよ」
それが三日前のことだ。
紺色のカシュクールワンピースを着た私はにこやかな笑みを張り付けたまま紅茶を口に運ぶ。ダージリンの柔らかな香りを楽しむ余裕もない。
香月さんは角砂糖をひとつカップに落としていた。意外に甘いものが好きなんだろうか。
ふいに彼が顔を上げた。銀縁のスクエアフレームの奥にある鋭い瞳に私は息をのむ。まるで私を暴こうとしているかのようで。…それは考え過ぎかな。
「大丈夫ですか。どこか体調が悪いのでは?」
突然心配されて私は面食らう。
声からも表情からもまったく考えがくみ取れない。
相手をよく観察する人みたいだけれど。
聞いた話では、付き合う女性は何人かいたそうだけれど長続きはしていないらしい。していたならここにいないか…。
「い、いえ…」
しどろもどろになりながら返す。
「あの…すみません」
なにがすみませんなのかは自分でも分からず、だけど口から出さずにはいられなかった。
黙る私へ香月さんは言う。
「…つばきさん。私が楽しいと思うときは何かをデザインしている時です」
何か言いだした。
「そ、そうなんですか」
「はい。その時間を恋愛事に割くのは正直気が進まないし、そんな思いで付き合わせているその人にも申し訳ない。あなたには――いえ、本条家の人たちには失礼ですが、この縁談も積極的に受けるつもりではありませんでした」
どうして今、言い直したのだろう。
まるでそれは、私も同じだというようで…。
「つばきさんもそうでしょう?」
違う、と言いたかったけれど言葉に詰まってしまった。そしてそれは、肯定の意味を持つ。
だって三日前に存在を知った男の人と、しかも代わりとしてお見合いするだなんて乗り気になれるはずがない。
でもこんなあっさり見破られてしまうなんて思ってはいなかった。少なくとも、私はこの席をつばきとして勤め果たそうとしていたのに。
ここで変に言い訳しても疑われるだけだ。
私がつばきの身代わりだとバレなければいい、と吹っ切れることにする。どうせ本家だって私にそこまで期待もしていないだろう。
「ええ、まあ。…この場で『乗り気ではない』というのは気が引けてしまいますが…」
「少なくともあなたの意思ではないことはなんとなく分かっていました」
もしかしたら見合いしたくない同士、妙なところで波長が合ったのだろうか。
「なので、これは提案なのですが」
「提案?」
香月さんはわずかに身を乗り出してくる。
ふわりと柑橘系とハーブの混ざった爽やかなかおりがする。香月さんはこういう香水をつけるんだな、なんて頭の片隅で考えていた。
「この先まだあるであろう、めんどうな縁談を避けたくはありませんか?」
真顔で言い切った彼を目の前に、私は唖然とするしかなかった。
確かに、そうだけど…。
「つ、つまり?」
「つまり、そうですね。婚約しましょう」
親が経営する本条ブライダルの事務職として働いている私のもとに、社長――つまり父親直々に呼び出された。慌てて社長室へ行くと、そこには顔を真っ青にした父親が立ち尽くしており、私に言ったのだ。
「つばきちゃんがいなくなったらしい。どこに行ったか聞いていないか?」
あのおてんば令嬢が…と呆れてしまった。
つばきはホテルグループを経営する本条家本家の長女だ。蝶よ花よと大切に育てられ、お嬢様というのならまず彼女が真っ先に思い浮かぶ。
分家の私とは歳が同じで、昔はよく遊んだものだが高校に入るころにはほとんど会わなくなっていた。まともに話したのは五年かそのぐらい前だ。
曾祖母の隔世遺伝か顔のよく似た私たちは幼少期によく入れ替えっこをして遊んでいた。今はあまり似てないはずだけれど
「私には何も。つばきもいい大人なんだからどこへ行くのも勝手だと思うんだけど……」
「今回はそうも言ってられないんだ」
「どういうこと?」
「三日後に、お見合いをする予定だそうだ」
へえ。
え!? お見合い!?
「なんでも相手は若社長で、無理を言って頼んだそうだから取り下げることもできないらしい」
本家の強引さは何とかならないものだろうか。
だからこそ、国内高級ホテルシェア上位に居続けることができるんだろうけど。
「そっか…。キャンセルなんてしたら本条家の面子だって潰れてしまうものね」
他人事のように思っていた。だって、本当に他人事だったのだから。
次の言葉までは。
「だからあやめ、お前に代わりを務めてもらいたいと話が出た」
「ええっ!?」
私がつばきの代わりにお見合いをするの!?
「いや、無理だよ! 無茶苦茶すぎる!」
「こちらも断った。自分の娘をよその娘の代わりにするなんてとんでもないと。そうしたら、あやめを電話に出すよう言われて――」
父の説明を待っていたかのように社長室の電話が鳴る。父はすぐにそれを取り、言葉を交わした後、保留ボタンを押して私に受話器を渡した。
「…正一郎さんが、おまえに話したいことがあるんだそうだ」
正一郎おじさんは本家当主。つばきの父親だ。
嫌な予感しかしなかった。だが知らんぷりするわけにも行かず、私は生唾を呑みこんで受話器を握りしめる。
ただでさえあの人のことが苦手なのに。
ーー五分にも満たない通話。
電話向こうの正一郎おじさんが、軽いあいさつの後につばきの話をし、そして私にひとつの条件を出したのだ。
――業績が傾きかけている両親の会社に融資をする条件で、私をつばきの代わりに縁談の席に出して面子を保つ。
断れない、いや、断ることを許さない内容だった。
ほとんど「はい」と「分かりました」と言っていないために会話の内容が分からない父へ、電話を終えた私はただ一言答える。
「私、つばきの代わりになるよ」
それが三日前のことだ。
紺色のカシュクールワンピースを着た私はにこやかな笑みを張り付けたまま紅茶を口に運ぶ。ダージリンの柔らかな香りを楽しむ余裕もない。
香月さんは角砂糖をひとつカップに落としていた。意外に甘いものが好きなんだろうか。
ふいに彼が顔を上げた。銀縁のスクエアフレームの奥にある鋭い瞳に私は息をのむ。まるで私を暴こうとしているかのようで。…それは考え過ぎかな。
「大丈夫ですか。どこか体調が悪いのでは?」
突然心配されて私は面食らう。
声からも表情からもまったく考えがくみ取れない。
相手をよく観察する人みたいだけれど。
聞いた話では、付き合う女性は何人かいたそうだけれど長続きはしていないらしい。していたならここにいないか…。
「い、いえ…」
しどろもどろになりながら返す。
「あの…すみません」
なにがすみませんなのかは自分でも分からず、だけど口から出さずにはいられなかった。
黙る私へ香月さんは言う。
「…つばきさん。私が楽しいと思うときは何かをデザインしている時です」
何か言いだした。
「そ、そうなんですか」
「はい。その時間を恋愛事に割くのは正直気が進まないし、そんな思いで付き合わせているその人にも申し訳ない。あなたには――いえ、本条家の人たちには失礼ですが、この縁談も積極的に受けるつもりではありませんでした」
どうして今、言い直したのだろう。
まるでそれは、私も同じだというようで…。
「つばきさんもそうでしょう?」
違う、と言いたかったけれど言葉に詰まってしまった。そしてそれは、肯定の意味を持つ。
だって三日前に存在を知った男の人と、しかも代わりとしてお見合いするだなんて乗り気になれるはずがない。
でもこんなあっさり見破られてしまうなんて思ってはいなかった。少なくとも、私はこの席をつばきとして勤め果たそうとしていたのに。
ここで変に言い訳しても疑われるだけだ。
私がつばきの身代わりだとバレなければいい、と吹っ切れることにする。どうせ本家だって私にそこまで期待もしていないだろう。
「ええ、まあ。…この場で『乗り気ではない』というのは気が引けてしまいますが…」
「少なくともあなたの意思ではないことはなんとなく分かっていました」
もしかしたら見合いしたくない同士、妙なところで波長が合ったのだろうか。
「なので、これは提案なのですが」
「提案?」
香月さんはわずかに身を乗り出してくる。
ふわりと柑橘系とハーブの混ざった爽やかなかおりがする。香月さんはこういう香水をつけるんだな、なんて頭の片隅で考えていた。
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