戦場の絶対正義

アカヤネ

序章 一話 危機

一九七五年 一月二十日 午後六時頃

「ゲネルバ」...、中米カリブ海上に浮かぶ、ありふれた小さな島国。地理的な区分では辛うじて北半球に位置するため、一月の今は高緯度の国では、冬の時期にあるはずだったが、赤道の間近に位置するため、亜熱帯気候に支配されるゲネルバの一月はおおよそ高緯度の地域に住む人間が想像する一月の気候とはかけ離れたものだった。
地球上で最も太陽を近くで浴びる昼間は言わずもがな、日の隠れた夜の間でさえ、蒸し暑い熱気は肌を汗ばませ、膨張して重たくなった大気の影響で、さらに熱気 が地上に滞留しやすくなっていた。
ミハイロ・ジェルジンスキーもそんな蒸し暑いこの国の一月に辟易する"高緯度からやってきた"人間の一人であった。シベリアの片田舎で生まれ育ち、イルクーツクの第二四独立特殊任務旅団で軍事訓練を受けた後、ことの成り行きでKGBにリクルートされてモスクワで教育訓練を受けた彼は生まれてから一度も北緯四十度より南に足を踏み入れたことがなかったのだった。数年前までの彼の勤務地であったベルリンでさえ北緯五二度線の上にあった。
そんな"高緯度から来た男"、駐ゲネルバKGB将校のミハイロは普段であれば、額の上を止まることなく流れ出る汗を拭いながら、シベリア訛りの母国語で悪態を吐きながら、自分を熱帯の未開拓地に送り込んだ祖国の連中に憎悪の念を抱くのだが、今日この夜に関してはそれは違った。
まだ舗装され切っていないゲネルバの国道を車体の錆び付いた青色のピックアップトラックを走らせるソ連人にはそんな常なる悩みは道路の左側、断崖絶壁の先にひろがるカリブ海の、水平線まで黒々と広がる様子とともに思考の中には一切入ってこなかった。
アメリカ人の大使にこの事を早く知らせねば。
彼の頭の中にあるのはそれだった。国内の共産ゲリラに戦闘指導を行い、モスクワに情勢の変化を逐次伝えるために機械技師の偽装身分とともにゲネルバに派遣されて五年、彼は持ち前の話術と高等心理術を用いて元来与えられていた任務以上の貢献を祖国に対して果たしてきた。着任して一年ほどで在アメリカ大使館のトップであるリード特命全権大使と水面下でのつながりを得た彼はこの四年間で大使から得た情報を駆使し、モスクワが思い描く理想的なゲネルバの国内情勢を作り出し維持してきたのだったが、この晩彼がアメリカ大使館の最高責任者に伝えようとしていることはモスクワの意思とは無関係なものだった。
むしろ、モスクワに知られれば自分の命もないかも知れない...。
数時間前、KGBの訓練学校で同期だった旧友の名で届いた電報の内容をミハイロは思い返した。
原子、抑止の崩壊、新たな世界大戦の可能性...、難解な専門用語が並ぶ数十行の電報の終わりに添えられていた一言は衝撃的なものだった。
「モスクワの内部にも「シンボル」のシンパによる不穏な動きあり。
この電報が君のもとに届くときには私の命はないかもしれない。」
誤字が多く言葉も選ばずに焦って書かれたであろう電報の黒インクの文面は旧友に迫っている命の危機を切実にミハイロに感じさせたのであった。
電報の現実味の無さから何かの間違いであろう、という気持ちを抱きながらも、心の奥底にある隠しきれない不安が膨らみ、数秒後にはミハイロは行動を起こしていた。
本国で大きな政治的変異が起これば、合衆国も影響を受けることは避けられない。取り返しのつかない事態に発展する前になんとか対処しなければ……。
ミハイロは電話に取り付き、アメリカ大使館の電話番号にダイヤルした。未だ紛争以外の部門では発展途上国の域を出ないゲネルバは電話線が切れていて、電話が繋がらないこともあったが、ミハイロが偽装身分の仕事の中で常に電話線をチェックしていたことが功を奏して、電話はすぐに繋がった。
電話交換手の女の高い声がスペイン語で挨拶の言葉を告げるのも無視して、ミハイロは英語でまくし立てた。
「機械技師のミハイロ、入国者No.0103、リード特命大使にすぐ伝えたいことがある。」
女はミハイロの焦りも気にかけないような冷静な声で、
「少々お待ちください。」
と今度は英語で喋ると、通話を保留状態にした。電話の向こうから流れてくる軽快な音楽に焦りと苛立ちを増幅されながらも、ミハイロは冷静さを完全には失っていなかった。
電話では盗聴されるかもしれない……。
そう考えたミハイロは電話交換手の女が電話口に出ると同時に、英語でまくし立てた。
「安全上の機密に関することなので、大使と直接話したい。共産ゲリラの支配域で電話線が切れた、と伝えてくれ。」
「承知しました。お伝えします。大使のご予定もありますので……。」
機密という言葉にも動じず、淡々と事務的手続きを進めようとした電話交換手の女の声を最後まで聞き取ることなく、ミハイロは受話器を置いた。
大使の予定だと?そんなものは開けろ!緊急なんだぞ!
緊急の事態の「き」の気配すら察知する余地のない交換手の女に対する悪態を吐きながら、ミハイロは手早く準備を始めた。
今日は普段通りにいけば、リードは大使館ではなく、首都の裏山にある、私邸にいるはずだった。
時刻は午後五時。隠れ家から大使の私邸までは三時間ほどかかる。
午後八時にはなんとかつけるか……。
機械技師の身分証と電報を封入した封筒だけを手に、隠れ家を大急ぎで飛び出してき一時間ほど車を運転して、現在に至るわけなのだが、まだ大使の私邸にたどり着くまでには、長い道のりがあった。

そう思ったミハイロの前方にはフロントガラス越しに首都カプロリウムの港湾施設の作業用ライトの作り出す人口の光が星々の如く輝く様子が目に入り始めた。
大使の私邸は首都の裏山、曲がりくねった山道を一時間ほど車で走ったところにある。カプロリウムの町を抜けるのに半時間かかることを考えれば、予定より三十分は早くたどり着くな……。
前を遮る車に一度も出会わなかったためか、予想よりだいぶ早く着けそうな状況に、ミハイロは心のなかに、わずかに余裕を感じた。
こんなくそ田舎の未開拓地でも渋滞がないってことだけは最高だな。
キノコ顔にうすら笑みを浮かべ、暑さと緊張のために額に噴き出た脂汗を拭ったミハイロは安堵の吐息を吐いたが彼の視界が港のライトとは比べ物にならないほどの眩いばかりの光に包まれたのはまさにその瞬間だった。
爆発か...⁈
突然の閃光と衝撃にその思考が頭によぎった、ミハイロの反応速度の速さはKGB工作員としての彼の資質の高さを表していたが、その優れた瞬発力をもってしても真下で爆発した地雷の爆発と金属片が彼の身体を粉微塵に切り裂くまでにミハイロに与えられた時間は何をするにしても短すぎ、絶叫する事ことすらできなかった。
ピカッ、と閃光が生じたかと思うと膨れ上がった爆発の圧力に耐えきれず四散したピックアップトラックはその車体より遥かに体積の大きい炎と煙に包まれて完全に姿を消した。爆発で車体から切り離された後、それだけ奇妙に原型をとどめ、宙を舞った青色のさび付いたバンパーは三十メートルほど上空に立ち上った爆炎の頂上あたりからとびだすと爆発の黒煤をたなびかせながら、海岸線を走る道路の脇に黒々と広がる夜のカリブ海に没していった。
爆発が完全に収まり、炎に包まれたトラックの残骸の二次爆発の危険がなくなったのを確認して、カリブ海とは反対側の国道脇の熱帯林の中から、黒色の戦闘服に身を包み、頭のヘルメットに装着した赤外線式の暗視装置を目につけた十人ほどの男達が現れた。彼らは決められた手順で燃え上がる破片を数分ほど調べた後、自分達の標的が死んだのを確信すると、お互いに何かを了承したハンドサインを出した。それを確認して、男達の内の一人が背中に背負った無線機の回線を開いた。
「スペクトラからコマンドへ。
オペレーション「CONDEMNATION」第一段階、クリア。これより、第二段階に移行する。オーバー。」
男が通信を終え、周囲の部下に撤退のハンドサインを出すと、十人の戦闘服の男達の姿は、再び国道脇の熱帯林の中へと戻り、ジャングルの闇の中へと消えていった。

それと全く同時刻、国道八号線とは別の経路からカプロリウムへと通ずる木材伐採用の作業路をミハイロが訓練していた共産ゲリラと対立する武装組織、「ゲネルバ革命軍」の一個小隊を載せた車両群がリード特命大使のいる駐ゲネルバ・アメリカ大使私邸へ向かってぞろぞろと闇夜の中を進んでいた。

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