境界の教会/キョウカイ×キョウカイ
ガラスの無表情/閉じた世界
●
美玲は拳銃を突きつけた。引き金には指が掛かっている。目の前の女を永遠に黙らせるための武器と覚悟がここに揃った。
視界の隅で、棚田が倒れた鬼無に駆け寄っていくのが見えた。手早く鬼無のスーツとワイシャツを捲って、応急処置を始めていた。棚田は鬼無の腹部に両手を当てて押さえた。体重が掛けられたとき、鬼無の口から呼気が漏れた。
鬼無は助かるだろうか。すごく気がかりだった。
「……駄目よ。銃を構えて、いるときに、よそ見しちゃ」
横合いから声を掛けられて、美玲は飛び上がりそうになる。
声のした方に振り向くと、顔面蒼白になった一之瀬が立ち上がっていた。片手を背中に回して、傷口を押さえているようだ。彼女がギリギリの状態で立っているのが美玲の目にも分かった。足は覚束ないし、呼吸も浅いのを繰り返している。
「一之瀬さん! 無理しちゃ駄目だよ!」
「あっは。……ま、ここが、踏ん張りどきだしー」
息も絶え絶えに笑ってみせ、一之瀬はもう一人に不敵な笑みを向ける。
「……でぇ? どうするシスター。完全に、追い詰められちゃった、ねえ」
瀕死の微笑みを受け止めた緋冠は、一つ溜息を零した。
「……はあ。仕方ありません。無駄な抵抗は好きではありません。観念します」
すとん、とその場に腰を下ろしてしまう緋冠。
あっさりした降伏に、美玲は何か裏があるのかと疑いたくなるが、一之瀬が接近しても動こうとしないのを見ると、本当に抵抗する気がないようだと分かった。
それどころか、緋冠はこちらを見上げて賞賛してきた。
「これでさっぱり解決ですね。おめでとうございます、美玲さん」
カッ、と一瞬で頭に血が昇り、美玲は、相手の胸倉に掴みかかった。
「何をっ、他人事みたいに……ッ! あなたの身勝手のせいで、どれだけの人が犠牲になったか……。人が、たくさん死んだんだ……!」
『未来』の絶望が脳裏に甦り、美玲は涙を浮かべる。
だが、緋冠はガラスの無表情のまま。不思議そうに首を傾げる。
「しかし、それは夢の話でしょう? 実際には起きなかった被害です。ここで死んだのは、鷲尾神父とタルボットさん。重傷を負ったのは一之瀬さんと鬼無さんですね。四人とも己の信念をまっとうしただけ。私は誰一人手に掛けておりません」
「な、にそれ……! あなたのせいで二人とも死んだんだ! 鬼無さんだって撃たれて、死ぬかもしれない! 全部あなたのせいだ!」
「いいえ、彼らが勝手に行ったことです。私は他人の人生を背負えるほど、偉くも強くもありません。私はいつ死んでも構わない、弱い人間」
緋冠はにっこりと微笑む。
「あと、私は善悪で動いていませんよ」
一之瀬がゆっくりと深呼吸し、ふと口元を押さえる。
「……ふぅん。罪悪感も、吹っ切れちゃった、感じ?」一之瀬は咳き込んだ。「……でも、カトリックを裏切って、悪魔と身を重ねて、大量破壊を目論んだ。これほどの大罪を積んだら、確実に、地獄行きでしょうよ」
「はい。あちらが過ごしやすい場所であるならいいのですが」
緋冠は明るい声音で言った。何かが致命的にずれている。緋冠の噛み合わない応対を聞いていると、頭がおかしくなりそうだった。
「……どうして、こんなことしようとしたの。あなたにも、他人を大事に思っていた頃があったでしょ。どうして、そんなに狂っちゃったの……」
「私は産まれた頃からこうでしたよ。何も狂っていません。これが私の正常です」
「…………」
美鈴は、何を言えばいいか分からなくなる。
「動機の方は、これが実行可能だと思ったからですね。つい、って奴です」
「……私は、絶対に認めない。緋冠さんを軽蔑する」
「別に、美玲さんに軽蔑されようが構いません。誰にどう思われようがどうとも感じませんよ。誰だってそうなのです。他人のことなんかひたすらどうでもいい」
話にならないと美玲は痛感した。この女にこちらの言葉が届かない。他人の思いが微塵も掠らない。独りで閉じて、世界が完成してしまっている。
同時に、誰とも分かり合えない彼女の生命が哀れに見えた。
「おかしいよ。そんな風に考えていたら、生きていけないよ……」
「そろそろいいですか? 生きるのに飽きてきました」
緋冠は目を閉じ、両手を合わせて俯いた。
小さく吐息して、一之瀬は膝を着き、神父の両手両足の戒めを解いた。
レオ・カルヴィニア神父が爆発したように跳ね起きた。一陣の疾風となって緋冠の背後に移動し、彼女の細首に獰猛な五指を伸ばす。
「さらばだシスターカタリナ。永久に凍てつく奈落の底で、眠るがいい」
「さようならレオ神父。どうぞ不幸に死んでください」
神父は鷲掴みにした頚椎を、もぎるように捻り折った。
ぺきりと軽い音がして。
緋冠陽慈女は、永遠に沈黙した。
カルヴィニアは、四肢を脱力させた遺体をその場に横たえ、首の角度を戻して目蓋を閉ざしてやった。標的を一撃で殺すのは、彼なりの慈悲の心なのかもしれない、とその所作を見て、美玲は思った。
死者に対する儀礼を終えてから、カルヴィニアは起立し、大扉に歩いていった。一度、出ていく直前で立ち止まる。
「……Amen!」
ホールに反響する大声で叫んでから、カルヴィニアは去っていった。
視線を戻すと、ふらりと一之瀬が倒れかけたので、慌てて駆け寄った。
「一之瀬さん! しっかり!」
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美玲は拳銃を突きつけた。引き金には指が掛かっている。目の前の女を永遠に黙らせるための武器と覚悟がここに揃った。
視界の隅で、棚田が倒れた鬼無に駆け寄っていくのが見えた。手早く鬼無のスーツとワイシャツを捲って、応急処置を始めていた。棚田は鬼無の腹部に両手を当てて押さえた。体重が掛けられたとき、鬼無の口から呼気が漏れた。
鬼無は助かるだろうか。すごく気がかりだった。
「……駄目よ。銃を構えて、いるときに、よそ見しちゃ」
横合いから声を掛けられて、美玲は飛び上がりそうになる。
声のした方に振り向くと、顔面蒼白になった一之瀬が立ち上がっていた。片手を背中に回して、傷口を押さえているようだ。彼女がギリギリの状態で立っているのが美玲の目にも分かった。足は覚束ないし、呼吸も浅いのを繰り返している。
「一之瀬さん! 無理しちゃ駄目だよ!」
「あっは。……ま、ここが、踏ん張りどきだしー」
息も絶え絶えに笑ってみせ、一之瀬はもう一人に不敵な笑みを向ける。
「……でぇ? どうするシスター。完全に、追い詰められちゃった、ねえ」
瀕死の微笑みを受け止めた緋冠は、一つ溜息を零した。
「……はあ。仕方ありません。無駄な抵抗は好きではありません。観念します」
すとん、とその場に腰を下ろしてしまう緋冠。
あっさりした降伏に、美玲は何か裏があるのかと疑いたくなるが、一之瀬が接近しても動こうとしないのを見ると、本当に抵抗する気がないようだと分かった。
それどころか、緋冠はこちらを見上げて賞賛してきた。
「これでさっぱり解決ですね。おめでとうございます、美玲さん」
カッ、と一瞬で頭に血が昇り、美玲は、相手の胸倉に掴みかかった。
「何をっ、他人事みたいに……ッ! あなたの身勝手のせいで、どれだけの人が犠牲になったか……。人が、たくさん死んだんだ……!」
『未来』の絶望が脳裏に甦り、美玲は涙を浮かべる。
だが、緋冠はガラスの無表情のまま。不思議そうに首を傾げる。
「しかし、それは夢の話でしょう? 実際には起きなかった被害です。ここで死んだのは、鷲尾神父とタルボットさん。重傷を負ったのは一之瀬さんと鬼無さんですね。四人とも己の信念をまっとうしただけ。私は誰一人手に掛けておりません」
「な、にそれ……! あなたのせいで二人とも死んだんだ! 鬼無さんだって撃たれて、死ぬかもしれない! 全部あなたのせいだ!」
「いいえ、彼らが勝手に行ったことです。私は他人の人生を背負えるほど、偉くも強くもありません。私はいつ死んでも構わない、弱い人間」
緋冠はにっこりと微笑む。
「あと、私は善悪で動いていませんよ」
一之瀬がゆっくりと深呼吸し、ふと口元を押さえる。
「……ふぅん。罪悪感も、吹っ切れちゃった、感じ?」一之瀬は咳き込んだ。「……でも、カトリックを裏切って、悪魔と身を重ねて、大量破壊を目論んだ。これほどの大罪を積んだら、確実に、地獄行きでしょうよ」
「はい。あちらが過ごしやすい場所であるならいいのですが」
緋冠は明るい声音で言った。何かが致命的にずれている。緋冠の噛み合わない応対を聞いていると、頭がおかしくなりそうだった。
「……どうして、こんなことしようとしたの。あなたにも、他人を大事に思っていた頃があったでしょ。どうして、そんなに狂っちゃったの……」
「私は産まれた頃からこうでしたよ。何も狂っていません。これが私の正常です」
「…………」
美鈴は、何を言えばいいか分からなくなる。
「動機の方は、これが実行可能だと思ったからですね。つい、って奴です」
「……私は、絶対に認めない。緋冠さんを軽蔑する」
「別に、美玲さんに軽蔑されようが構いません。誰にどう思われようがどうとも感じませんよ。誰だってそうなのです。他人のことなんかひたすらどうでもいい」
話にならないと美玲は痛感した。この女にこちらの言葉が届かない。他人の思いが微塵も掠らない。独りで閉じて、世界が完成してしまっている。
同時に、誰とも分かり合えない彼女の生命が哀れに見えた。
「おかしいよ。そんな風に考えていたら、生きていけないよ……」
「そろそろいいですか? 生きるのに飽きてきました」
緋冠は目を閉じ、両手を合わせて俯いた。
小さく吐息して、一之瀬は膝を着き、神父の両手両足の戒めを解いた。
レオ・カルヴィニア神父が爆発したように跳ね起きた。一陣の疾風となって緋冠の背後に移動し、彼女の細首に獰猛な五指を伸ばす。
「さらばだシスターカタリナ。永久に凍てつく奈落の底で、眠るがいい」
「さようならレオ神父。どうぞ不幸に死んでください」
神父は鷲掴みにした頚椎を、もぎるように捻り折った。
ぺきりと軽い音がして。
緋冠陽慈女は、永遠に沈黙した。
カルヴィニアは、四肢を脱力させた遺体をその場に横たえ、首の角度を戻して目蓋を閉ざしてやった。標的を一撃で殺すのは、彼なりの慈悲の心なのかもしれない、とその所作を見て、美玲は思った。
死者に対する儀礼を終えてから、カルヴィニアは起立し、大扉に歩いていった。一度、出ていく直前で立ち止まる。
「……Amen!」
ホールに反響する大声で叫んでから、カルヴィニアは去っていった。
視線を戻すと、ふらりと一之瀬が倒れかけたので、慌てて駆け寄った。
「一之瀬さん! しっかり!」
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